2013年9月7日土曜日

母の本、「夕映え」


母親の本がようやくできた。98ページの薄い本だが、これが戦前の徳島県脇町の姿がよく描かれていて、面白い。9月の始めに大阪に帰省していたが、ちょうど本を送った友人から次々電話やはがき、手紙が母の元に来て、てんてこまいであった。なかなか評判はいいようである。久々に同級生と昔の話を長いことしゃべっていた。

母は大正13年生まれで、描かれている時代は昭和の10年前後のことであろう。日支事変などもあり、社会は次第にどんよりした景色になっていたが、田舎ではみんな明るく、のんびりとすごしていたようである。本を作って最も喜んでくれたのが、母であった。これは経験者しかわからないことだが、自分の文が本という実体をもつものになることは、本当にうれしいものである。母は一応、アマチュア画家としてはそこそこ有名であるが、絵を展覧会に出品し、賞をもらっても、本を出版する喜びとは比較できないと言っている。まして本を読んだ感想が色々な人から聞けるのであるから、これはうれしい。こういった私家本の出版物の多くは、詩集、俳句集、自分史などであるが、これはもらってもあまりうれしくないし、第一に読まない。母は画家なので、一般的には画集を出すものであるが、費用ばかりかかり、これも何だか自慢話で面白くない。そこで内容を昔の脇町、それも戦前の脇町について、書いてもらうことにした。思い出すことを短くていいから、まとめるように指示し、それをあとで編集するようにした。また文だけでは、飽きるので、写真や簡単なイラストをいれるようにしてもらった。

本にすることで、あと何十年しても思い出が形として残る。郷土史研究を通じて、いつも思うのは、どうして文として残してくれないのかということある。昔話の中には、本当におもしろい事実があるが、それを文あるいは本として残してくれないとあっという間に記憶から消える。そういった意味では、母のこの本も戦前の脇町を伝える記録のひとつとなろう。


父の話

 父は農家の生まれで、母のところに養子にきた。何時も和服を着て、外出の時は、いい着物に着替え、徳島県庁に行く時には袴をつけて、戦時中でも和服をきちんと着ていたので、よくお寺さんと間違えられた。大阪へは月一回行っていたが、お膳にお銚子、尾頭付きの魚をつけて真新しい柾目の幅広い下駄、帽子をかぶり、番頭を連れて出かける。大量に仕入れるので大阪の問屋さんも、もてなしいただき、船場の店とか芦屋の本宅とかに泊まっていた。時々、時間をつくって勝太郎や市丸さんの歌を劇場で見たようだ。帰宅してよく話してくれた。仕入れして数日すると荷物が大量に入る。昭和の始め頃は舟で吉野川を渡っていた。猪木運送というのがあり、大きな大八車を二頭の大きな犬で引いていた。商品は大きな木箱に入っていた。何日かは値札つけに忙しい。店の棚の上がいっぱいになる。新品、珍しいものばかり。
 映画館オリオン座の裏のちょっと低いところに長屋があった(映画にもでた)。黒の板をはったような軒の低い小さな家がぎっしりと並んでいた。時代劇に出てくる長屋のようなもので、住民は皆貧乏で子供達が大勢いた。お正月がきてもお餅が食べられない子である(お餅は皆、家でつくから売っていない)。父は子供が可哀想と丁稚に餅を持たせて、子供のいる家に配っていた。
 父がいろいろ役員(公安委員、民生委員)をしており、役場へよく行っていた。ある日、町長とちょっと役場の奥の場所で将棋をしていた時、山から下りて来た人が子供の出生届を持って来た。字を書けないその人は何もわからない。窓口でやりとりしていると、町長が何人目かと問うと、三人目という。町長は「三男(みつお)」とつけておけと言う。これを聞いて父はひとつの命、子供の尊い命が、このように軽々しく決められ、軽んじられることに心を痛め、それより大阪に行き、姓名学の先生の門をたたき、これを修得した。「井川演山」とうい名をいただき、無料で子供の名前をつけた。一人、一人大きな奉書に「命名証」と達筆で書き、きれいな立派な落款を押して、神棚にまつり、それを親に渡していた。立派な人間、健やかに育つようにとの一念である。後年、よく小さい子から大きな子まで名前をつけていただいたといって顔を見せに来た。小さな子が来ると、半紙に包んでお小遣いを渡して、いろいろと励ましていた。
 町には不良が何人かいた。その子供について、よく相談にのっていた。心を入れかえた者を相撲部屋に紹介していた。床山にも何人かなっていた。よく場所ごとに番付を送ってきていた。
 深夜、チンチンと鈴の音がして悲しそうな牛の声。屠殺場に送られる牛馬頭である。翌朝、父は早起きして小僧さんと一緒に道路にころがるふんを片付ける。小僧がなんでこんな汚いことを旦那さんはするんですかと言うと、「汚いものは誰が見ても汚い。一人早起きして片付ければ、朝起きして来た人は皆、気持ちよく朝を迎えられる。朝は一番大事だ」と。
 四年生の時、赤い鼻緒の真新しい下駄をはいて、町の風呂屋に行った。風呂を上がって帰ろうとしたら、下駄がない。下ろしたての初めての下駄。泣きそうになって、その中の一番ましなのを履いて帰り、母に詫びると、父がそばから「仕方ない。だがお前のしたことは間違っている。次の人も次の人もお前と同じことをするだろう。そんな時は中でも一番汚い下駄を選んではいて帰えれば誰にも迷惑をかけないで、嫌な思いをせずに済む」と、父に教えられた。
 私の勉強机の前には未だ二、三年生というのに、熊沢蕃山の「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」 これが大きくなるまで貼られていた。父の字で。
 戦局がいよいよ激しくなり、北支戦線から兄が一時帰り、再び出征した。明日、入隊という日に、父は家伝の日本刀を兄に渡し、「チャンコロ(支那兵をこう呼んでいた)にも親がおり、決してこの刀を使って人を斬ってはいけない。自分の身を守る時以外は使ってはいけない」。出征する時、兵士に贈る言葉は「お国のために立派に死んで手柄を立てよ」。これがはなむけの言葉だった時代、父の親心、精一杯の愛情の言葉だったのだろう。当時、こんな言葉は言えなかった時代である。八人兄弟の中のたった一人の息子をどのような気持ちで死の戦場に送ったことだろう。君死にたまうなかれ。そんな兄はそれっきり、ビルマ、インパール作戦に加わり、行方不明。何年かしてから戦死の報せがきた。


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