弘前地租改正地引絵図の解読に取りかかっている。すべての人名と地所の幅、奥行き、面積を打ち込んでいる。絵図では間、尺で表記されているため、番地、所有者、幅については間、尺を打ち込み、メートルに換算して、平均値と標準偏差をだす。面積については、地所が長方形になっておらず、台形の地所が多いので、道に面した幅と、奥行きは左右の平均値をだして、両者を掛けて面積とした、さらに坪でも表記した。こういった計算はエクセルが得意なので、デジタル化した絵図を拡大し、新町から打ち込んでいった。新町、馬屋町、鷹匠町と打ち込み、あとは駒越、西大工町などを残すのみとなったので、中間報告をする。
新町(荒町)は252番地まであるが、誓願寺も含むため、それを除いた251件の間口の平均が8.9m(SD5.8)、奥行きは38.1m(SD7.2)で、面積は344m2(SD265m2)となる。坪で言えば104坪となる。幅が狭く、奥行きが長い典型的な町家の地所である。幅が平均で4間5尺、奥行きが20間5尺となる。
侍町の馬屋町は、35軒で、間口は29.6m(SD19.3)、奥行きは40.9m(SD15.7),
面積は1239m2(SD994)、坪では373坪(SD301)となる。馬屋町は馬場に沿った馬師範や馬の厩舎や役所もあったため、大きな地所がある。そのため平均坪数も大きい。さらに藩の重臣の家もここにあるため、間口の広い士族屋敷が並ぶ。幅が16間2尺、奥行きが22間3尺となる。
鷹匠町は、下級士族の住まいであるが、間口は18.9m(SD7.1)、奥行きは35.6m(SD8.7)、面積は639m2(SD157)、坪では184坪(SD47)で、SDが比較的に小さく、同じ大きさの地所が続く。幅が10間2尺、奥行きが19間3尺となる。
現在の土地と比べると、間口はそれほど変わらないが、奥行きが長く、家を建てるのは不向きな土地割りである。江戸時代、道沿いに門、そして小庭、家が並び、家の奥は畑となっていた。侍家は町家(新町)に比べると、鷹匠町では間口が約2倍、馬屋町では約3倍であるが、奥行きは侍家、町家ともそれほど違いはなく、間口の違いが敷地面積の差となる。新町では平均100坪、下級士族町の鷹匠町では200坪、中上級の士族の住む馬屋町では300坪となる。今の感覚からすれば地所は広い。広い家は間のみ、狭い家は、間、尺、寸まで測られ、地引役人への付け届けによるものかもしれない。
さらに道についても、道幅の記載が一部、見られる。新町通りは6間3尺、12メートル、誓願寺通りは6間5尺から5間3尺、13メートルから10メートル、西大工町では4間から3間4尺、6から7メートルと、今の道幅とあまり変わらない。これまで自動車が通れるように後年になって道幅を広げたと考えていたが、少なくも幕末の道幅は現在とさほど変わらないことが確認された。当時、これほど広い道は、馬車の通行を考えても広すぎ、防火(延焼)目的あるいは、排雪用に作られたのかもしれない。
馬屋町には馬場があり、その大きさは約20間(36m)、長さは140間(255m)と広い。馬を走らせるために馬場は3間2尺の2つの土居で3つのレーンにわかれ、それぞれが幅6間2尺、5間2尺となっている。まるで競馬場のようなコースとなっている。馬場の中に工藤主膳の名があるが、これは工藤他山の思斉堂という私塾で、幕末、馬の稽古もなかろうとと、馬場内に作られたのであろう。
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