2014年6月18日水曜日

木村藹吉、繁四郎、健次郎



 木村藹吉(1840-1879)は、弘前藩の重臣の家に生まれ、1862年に福沢塾で学び、その後、洋式兵術を江川塾で修得して、藩の兵制を西洋式に改革した。戊辰戦争、函館戦争では弘前藩の大隊長として腕に砲弾の破片が当たる怪我をしながら奮闘した。維新後は、兵部省に属し、一等中警部心得として東奥義塾の学生を引き連れ西南戦争に参加するも、途中、戦いが終わり、京都で解隊して帰郷した。後、北海道の開拓を志し、39歳の若さで亡くなった。文武両備の優れた人物で、漢詩もよくした。
この人は名前好きというか、多くの名、字をもつ。先祖からの杢ノ助、藹吉、健太郎、健、繁四郎、千別、さらに名は重清、誠明、一綱、顆卵などがある。

 弘前藩明治一統誌 人名録(内藤官八郎)に中に木村千別の説明がある。
「氏は弘化の人なり。幼名、繁四郎のち、親、杢ノ助の世襲に請いて杢ノ助と称す。藹吉、健太郎氏改む。物頭役より慶応の度、御馬廻組改と成る。明治元年九月、隊士を低属して函館に入り、清水谷知府事を守衛中、同年十一月、徳川の脱艦流賊の奴等、函館を襲う。隊士を指揮して七重浜に出張、賊と大に攻撃、奮闘するも、応援の兵なく、且つ一途守衛の大野福山藩、肥前藩、松前藩の官軍合同防御するも事急にして思う図に当たらず、清水谷公もその機に迫り、青森地方へ遁走の都合に会す。一先難を諸藩と共に内地へ開きたり。戦争中、部下の隊士討死する者、三名、則ち葛西文三郎、高杉権六郎、坂本友弥等なり。明治元年九月二十日に至り、更に隊士暫加し、南部地方、野辺地に向い、南部藩を攻撃の為、惣隊長の兼にて、小湊へ出張。小隊司令官、小幡左近の惣とし、山田要ノ進、井藤運八、山川啓吉、田中又蔵、谷口永吉、高木孫一、須藤惟一等討死と成る。南部藩降伏弥弥顕れ、休戦す。討死の骸は馬門村字朝日野に埋葬し、霊は弘前冨田村領千本杉、招魂社へ納む。明治二年、更に隊士を組み、松前地方へ官軍と共に出張。江指口より上陸。各所奮戦を隊士に鼓舞し、竟に矢不来を抜き、大いに国威を●勇に表●、清水谷公の感賞を賜はる。其奮闘中に●●●。青森病院に入るといえども、疾●。平常に異なる事なし。鎮当に是を軍事の慰労を愛せられ、玄米百三十俵と御刀新、金百匁を賞典せらる。明治十年、同十一年には旧藩士を募集し、一大隊を編み、杉山上総に副へ、東京へ西南ノ役に応援す。十一年には補亡の長を荷ふて、旧藩士を附属し、再び東京へ発するも、明治十四年四月、青森往復途中、脚気症の為に惜かな、歿す。諸輩是を伝聞して、大に憚惜し、有志、大円寺境内へ功徳牌を新築して氏の霊を慰む。」

 木村藹吉の長男が、木村繁四郎(はんしろう、1864-1945)で東奥義塾から明治14年に上京し、中村正直の同人社に入り、英語を学び、さらに札幌農学校に進み、明治21年に卒業した(7期生、内村鑑三の弟、達三郎と同期)。本来は農業化学の方に興味を持ち、その方面の研究をしたかったが、父が北海道開拓事業で残した借金のため、教師となった。栃木師範、宇都宮中学教諭を経て、明治30年に神奈川尋常中学校の教諭となり、さらに二年後の明治32年には同校第二代校長となり、大正11年に退職するまでの24年間、神奈川中学校の基礎を作った。特に英語教育には熱心で、外国人教師を招き、万国表音文字を習得させた。さらにモットーの「自学自習・自律自制・和衷協同・克己復礼」は現在の神奈川県立希望ヶ丘高校に引き継がれている。いわば神奈川県下で最古の公立神奈川中学校(神中)の創設者と言ってもよかろう。東奥義塾でイングに英語を習った木村は神中でも同じような教育をしようと思ったのだろう。神経衰弱の生徒から切りつけられるという不幸な事件があったが、キリスト教徒としての慈愛に満ちた性格によるその生徒への寛大な処置は多くの横浜市民から感動された。その温顔、とくにその優しい眼は象を象徴するため、生徒は「象」という綽名をつけていた。大正12年から昭和10年まで全国中学校長協会主事を勤めた。父と同じく、漢詩に造詣が深かった。

 今東光との関係は、木村繁四郎の姉、郁が、伊東重に嫁いでいるため、母親の兄の嫁の兄、つまり伯父さんとなる。今東光の母、綾からすれば兄の嫁の兄となり、面識があった上、木村の妻、クニは今綾とは同級生で、かつ横浜の住まいが近かったため、今家と木村家は親しい間柄であった。そのため今東光が関西学院中等部を追い出された折、木村は豊岡中学を紹介した。横浜には同じ東奥義塾を出た平田平三(1860-1933、青山学院理事長)も横浜教会にいたので、木村とも親しかっただろう。ここらが弘前、東奥義塾、キリスト教、繋がりが強い。

 木村繁四郎の息子が、ビキニ原爆実験の分析を行った分析化学者の木村健次郎(1896-1988)である。東京大学教授、東京次子大学学長、日本原子力研究所理事などを歴任にした。あるインタビューでは、自分が化学の方に進んだのは、父親が化学、物理が好きだったこと、それと一戸直蔵(青森出身)の「現代の科学」に影響されたと述べている。熱心なキリスト教徒で、温厚な人柄と長身で容姿端正な姿から、“紳士”といい字が人になったらそれは木村先生と言われるくらいであった。

 木村家は三代に渡り、優れた人材を送り出した。藹吉は戦争がなければ稽古館の漢学の先生になったろうが、結果、優れた軍人となり、繁四郎は父の借財がなければ化学者になったろうが、結果、優れた教師となり、そして健次郎は化学者となった。一代ずつずれた家系である。

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