2014年9月15日月曜日

平成24年度弘前大学シニアカレッジ

 先週の日曜日に平成24年度の弘前大学シニアサマーカレッジの講師として「明治初期の弘前絵図から —人物と景色を探してー」というタイトルで1時間半ほどの講義を行った。大学での講義は鹿児島大学歯学部で学生に教えた以来で、やや緊張した。受講者は遠く大阪、東京から来られた19名の方で、皆さん熱心に受講された。一番年配の受講者は何と86歳の大阪から来られた女性で、出身が鹿児島、子供のころは神戸にいたという方で、私と共通するところが多く、懇親会修了後には鍛冶町で一緒に飲む事になった。

 講演は主として、「新編明治二年弘前絵図」と明治6年の弘前地籍図について述べたが、今回は弘前の街歩きの面白さを伝えたくて、動画を講演の中で利用した。カメラをもって、近所100m範囲を撮影し、そこに昔住んだ人物について解説した。ところが時間がなく、動画を早送りしようとしたが、うまくいかず、受講者にとってはかえってわかりにくい内容になってしまった。申し訳ない。

近所の人物について紹介する

 今、住んでいるところは明治二年当時の戸主として舟水権治の名がある。この孫が船水喜幸である。青森県人名事典によれば

船水喜幸
明治17年〜昭和21年(1884-1946)弘前の人。旧津軽藩士船水助次郎(権治の息子)の長男。明治36年青森県立第一中学校を卒業し、二高を経て同36年東京帝国大学独法科を卒業。同年高等文官試験に合格し、札幌郵便局長、逓信省事務官、熊本、大阪、東京各逓信局監督課長などを歴任した。昭和8年日本放送協会本部監査部長、同協会理事をつとめた。趣味は読書、散歩。息子の船水誠は化学者で山形大学名誉教授。

 さらに20mほど東には三浦忠太郎の名がある

三浦才助
三浦忠太郎の弟、幕末に福沢塾に入塾し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府の醍醐少将と仙台藩に捕われる。維新後に清俊と改名し、内務省で近代測量の先駆けの仕事を行った。

 南30mくらいのところには

今宗蔵(1855-1883
  今家当主、儒学者、東義塾教師。自由民権運動の若きリーダーで青森県を代表して国会開設の建白書を書いた。弟、今武平の子が今東光、今日出海兄弟

吉崎奥左衛門
子供?が吉崎彦一(1870-1925)と思われる。彦一は東奥義塾卒業後に、カリフォルニア州立大学、ノースウェスタン大学、シカゴ大学で計12年間学んだ後、帰国し、鎮西学院、関西学院教授などを勤めた。

工藤吉二郎:息子の工藤儀助(1858-1931)は東京駒場農学校で獣医学を修め、第7師団獣医部長。弟の東三郎(1870-1910)はデポー大学、エール大学を卒業したが、帰国後にほどなく亡くなる。

 西30mくらいのところには

蒲田俊八(がつぎた): 弘前藩勘定奉行、維新後は青森県少属、県会議員副議長などをつとめる。息子の蒲田広は東奥義塾副塾長、県会議員

佐藤要吉:長男の要一は渡米後、東奥義塾の教師。息子は拓殖大学名物教授の佐藤慎一郎、末弟は俳人の松本星陵でその子が短歌の松本静泉

 さらにここから北に30mくらいには

白戸浪江:次男が直世、その息子が郡場寛(1882-1957)。植物学者、京都大学理学部部長退官後、シンガポールに赴任する。イギリス人学者との友情は有名で、戦後は弘前大学学長。

小山内連司:第四代弘前市長の小山内鉄弥の父

 自宅から歩いて5分以内でさえ。これだけの人物がいる。このうち吉崎彦一、佐藤要一、工藤東三郎はいずれも東奥義塾からアメリカの大学に直接進学している。例えば、工藤東三郎は東奥義塾卒業後、青山学院に進学し、その後、東北学院の教師となったが、渡米の志強く、エール大学で神学博士の学位を得て、帰国。東京毎日電報社に入社するが間もなく亡くなった。1870年代生まれの弘前の秀才達は義塾からアメリカの大学に行く例が多いが、1880年代生まれとなると官立の弘前中学、旧制高校、東京、京都帝国大学といった官僚の道を選ぶようになった。その後はこの流れが主流となる。

 私の住んでいるあたりは、下級士族が居住していたところで、在府町や仲町(若党町、小人町)などではもっと多くの人物がいる。こういった歴史を加味した街歩きもまた楽しい。私としては会ったことはないが、佐藤慎一郎先生の実家が近いというのがうれしい。

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