2014年10月22日水曜日

宇野海作





 宇野海作は、孫文の中国革命に協力した山田純三郎とともに活動した人物だが、その正体ははっきししない。資料は少なく、青森県人名大辞典(東奥日報社。1969)には次のように書かれている。

「宇野海作(うの かいさく)
明治十二年〜昭和二十六年(1879-1951)南津軽郡六郷村赤坂(黒石市)に生まれる。志士。支那浪人のあだ名がある。小学校の教育は、七歳のときから寺小屋で有名な黒森山浄仙人寺で受け、そこから弘前中学校へ入学した。このような例は珍しいものとされている。中学卒業後、単身渡米、米国での生活は、ただ皿洗いだと語っていたが、本当のことはわからない。帰国後は中国に渡り上海の東亜同文書院を卒業。通訳などをしたが、軍事探偵だったという説もあり、大陸時代の友人は、弘前出身の支那浪人山田純三郎や、元陸軍大将の松井石根、本庄繁らがいる。日支事変中、松井大将は南京攻略司令官であったが、南京攻略後松井は宇野を呼んで、宇野の知人である蒋介石のところに使わし、和議をすすめたとも伝えられている。いずれにしても宇野は非凡な人であっただけに、そして軍探といわれただけに、自分の過去を人に語ることをしなかった。従って宇野の大陸生活の真相を知る人は限られた人ばかりのようだ。長兄には元郡会議員宇野津五郎(明治9年—昭和16年)がいる。」

 宇野海作は東亜同文会ができた翌年の1899年9月に同会から北京語修得の目的で、岡野増次郎、曽根原千代三、山田純三郎、上田賢象、井手友喜、牛島吉郎ら6名とともに上海に留学した。1900年5月(明治33年)には南京東亜同文書院が設立された時には、曽根原、上田、岡野、山田と一緒にそのまま第一班(上級)として同院の一回生として入学した。当時の教官に、支那時文、支那語舎監として山田良政の名がある。このことから宇野は少なくとも1899年9月には中国に渡ったことになる。20歳の時となる。弘前中学卒業後に渡米したとすると、17、8歳で渡米したことになり、2、3年で帰国して、今度は中国に向かったことを意味する。

 一方、1920年1月のアメリカの国勢調査(census)では、Kaisaku Uno1911年にワシントン州のYakima郡に移住し、年齢は40歳で独身とある。若いときに渡米したとすれば、これは二度目の渡米となる。Frank Z Fukui(農業 Farmer 35)の家に下宿している。Fukui32歳独身で、1908年に渡米している。また同居人にはMasakane Tozawa(農業労働Farme Laborer)の名もある。23歳独身で、1914年に渡米している。肝心のUnoの職業欄はguitar とも読めるし、miterとも読めるが、判読できない。1930年の国勢調査、収容所キャンプには上記三名の名がないことから、その間に帰国した可能性が高い。

 昭和に入ると、山田純三郎と宇野海作はよく行動をともにしており、松井石根大将とも中国問題についてよく談義した。松井大将は南京攻略後に萱野長知、山田、宇野らとともに国民党との停戦和平を画策したが、内閣書記管長の森 恪や朝品新聞の尾崎秀実の妨害により失敗する。この三人は国民党内部に知り合いも多く、中国語も堪能なので、うってつけの交渉人であった。


 宇野海作が、東亜同文書院で中国語を修得したのに、なぜ渡米し、そこに9年以上過ごし、その後、また中国に戻り、軍探のような仕事をするのかは、全くわからない。最近、「諜報憲兵 満州首都憲兵隊防諜班の極秘捜査記録」(工藤胖著、潮書房光人社、2013)という本を読んだ。著者は青森県出身者であるが、こうして記録に残してくれれば、いいのだが、青森県人は口が重く、困る。宇野海作については写真一枚ない。

「黒石夜ばなし」(みなみや仙骨著、昭和35年)に
「今田平作の三男を源三郎といった。源三郎は明治十六年に生まれ、東奥義塾に入学した。東奥義塾時代の源三郎の同級生には板柳の工藤忠がいた。学校時代の源三郎は腕白で、東の今田、西の工藤忠と並び称せられ、互いに胆力を競ったものだ。
源三郎は十七才にときに中国に渡り、東亜文化協会に入り中国語を学んだ。数年後、日露戦争がはじまり源三郎は中尉相当官の待遇で第二師団付通訳官になった。源三郎は日露戦争が終わってから外務省の青島駐在事務官になったが、明治四十年頃から約八年間消息不明になった。
行方をくらました源三郎は軍事探偵として中国全土を遍歴していた。しかし家人は源三郎生存を信じなかった。任務を果たした源三郎は再び姿を現わし、南京駐在情報局長の地位についた。源三郎はその後、外事関係の仕事に従事していた。支那事変がはじまるや源三郎は老齢にもかかわらず特命を帯びて中国に渡り石家荘にいたが、激しいゲリラ戦のただ中で不規則な生活を続け、健康を害して故郷に帰った。生涯の大半を中国で送った源三郎も昭和十九年、波乱に富んだ思いでを残してこの世を去った。」

宇野海作の4歳下の後輩だが、同じような活動をしている。この人も全く無名である。

11/15 追加 :上記の本に、津軽平八郎の三男、信麿がアメリカで本多庸一と会っているところに、宇野海作がたまたま訪れた。本多がこの青年と話をするのを聞いていると、あたかも主人に仕えているような態度なので驚いていると、後で津軽家につながる人物とわかったという話がある。本多二度目の訪米時のことで、1896年、宇野海作17 歳のときである。

0 件のコメント: