NHKの「ドキュメント72時間」は好きな番組である。先週の番組は兵庫県の兵庫区にある小さな駄菓子屋さんの72時間を追ったもので、そこは子供達、昔の子供達が集まる「小さな宇宙」がある。店主のねえちゃんの人柄に引かれて多くの子供が集まり、けんかしたり、ぐちを言ったり、さみしさを紛らわしたり、人生の夢を語ったりする。障害を持った兄ちゃんも登場し、2、3畳の小さな駄菓子屋の中には人生、社会の縮図を見る。
子供のころ、近所にもこういった店がたくさんあった。家の4軒隣のばあさんがやっていた駄菓子屋が本拠地で、他にも3軒ほどあった。また ちょぼ焼きといって、10cm×15cmくらの鉄板に10個ほどの穴が開いており、そこにたこ焼きの粉を入れ、天かす、しょうがなどが入った食べ物を出すところもあった。
私がもっぱら遊んだ幼稚園から小学3年生当時、昭和30年代の尼崎の駄菓子屋を思い出そう。入り口は開放され、小さな駄菓子屋は畳一畳くらいで、たいていは婆さんが奥にいて、手前に置いてある駄菓子を子供たちが選び、買う。子供は親からこづかいとして10円をもらい、一個1円から5円くらいの駄菓子や、人気のあったのはくじ付きの駄菓子であった。そのひとつに、ベロベロというものがあった。これはわらび餅で、一回のくじが1円で、まずこれで5回引く。当たれば大きなベロベロがもらえるが、大抵ははずれで子供の舌くらいのサイズのベロベロを新聞紙に入れ、そこにきな粉をかけてもらう。その後5円で黒豆の入った袋くじを引き、これも当たれば大きな袋入のものがもらえる。あっという間の10円の買い物である。他には紙にニッキで絵が描かれ、それを舐めるという菓子(ニッキ紙)や、試験管の細いようなものに得体のしれないジュース、ゼリーが入っていたものや、それを改造した透明のストローの中にゼリーが入ったものがあった。いずれも今考えるととんでもないものが入っていて、体に悪かっただろう。少し大きな駄菓子では、子供の遊び道具、ベッタン、ベーゴマや銀玉鉄砲、その玉、竹ひご飛行機なども売っていた。また店の片隅には鉄板があり、小麦粉の溶いたものに少しのキャベツと赤しょうがを入れたお好み焼きも一枚10円くらいで焼いてくれたが、10円のこづかいではめったに買えなかった。
こづかいは毎日、10円。たまに友人の家に行くと、そこでも10円玉をくれたりしたし、どういう訳か家には大きな神棚があり、さらには賽銭箱があった。それを逆さにすれば、金がでてきたので、親にばれない範囲で2、30円ちょろまかした。他には近所のタバコ屋に親父に頼まれ、「いこい」は「ハイライト」を買いに行くと、釣りを小遣いとしてもらった。100円ほどになると、小学校近くの文房具屋でプラモデルの飛行機を買ったし、その後は、「プラモデル作りは歯医者になるにはいい訓練になる」と親父、お袋に気づかせ、その度に500円くらいせしめ、そういった折には三和商店街の奥にあった「コンドル」という模型屋でもっと大きなプラモデルを買った。
毎日、毎日飽きもせず、こういった駄菓子屋に行き、遊んだ。幼稚園、小学校低学年は、近所の空き地で、「東京けんぱ」、「サザエさん」、「ベッタン」、「ビー玉」などをしたが、小学3,4年以降になると、ゴム鉄砲、銀玉鉄砲、三角野球や週刊漫画誌の回し読みとなった。そろばん、習字などの塾以外の時間はすべて遊んでいて、勉強は一切しなかったが、こういった環境に危惧した親が小学校5年生のころから進学塾に行かせるようになると、一変して勉強浸けの毎日となった。それでもプラモデルとマンガだけはやめられず、高校生ころまで続けていた。
9 件のコメント:
難波小学校に通っておられとは懐かしい!
1956年ということは、私より7歳下です。
難波小学校の運動会の歌を覚えておられませんか?
♪みんなで遊んだ1日よ~
楽しい遊戯の数々よ~
夕日~西~に落~ち~
運動会は終わります~
先生皆~さん有難う~
最後にお口を揃え~
難波の学校の万歳を~
声の限りに唄いましょ~♪
って歌なんですけど。
親父が住友化学で働いており、難波中通り(だったと記憶してます)の社宅(2階建ての4~5軒の長屋)に住んでおりました。
数年しか住んでいなかったので、それ以上の記憶はありません・・・
駄菓子屋のは、お好み焼きではなく「洋食焼き」ですね。
ベーゴマではなく「バイ」
ゴミ箱にゴザを乗せて、中央を少し凹ませて回してました。
回りを良くする為に、裏をヤスリで削って鋭利にしてた記憶があります。
ビー玉ではなく「ラムネ」と言ってましたよ。
地面に穴を掘って順番に入れていく「ポリ」と、目の高さから落として相手のラムネに当てる「目カッチン」と、四角い枠を書いて、その中にラムネをいっぱい入れて中に羽柄の玉を1個だけ入れてそれを枠から出せば勝ちという遊びがありました。
タバコは「いこい」「しんせい」が多かったですね。
「ハイライト」は私が中学1年の頃に発売開始だったと思います。
「朝日」以外で吸い口の付いたフィルター・タバコの始まりでした。
「人形けんぱ」「陣地取り(地面に釘を3回刺して線を引いて自分の陣地にする)」
懐かしいですね~・・・
尼崎の実家から今、帰りましたが、帰りのタクシーの運転手が私の2年後輩で(難波小学校)、大いに話しが盛り上がりました。
あの頃はひとも多く、三和商店街もいつも人でいっぱいでした。友人にキャバレー「百万$」の息子がいましたが、飲屋街の酔っぱらいとホステスさんの嬌声、今でも思い出します。確か、芝居小屋もあり、途中からストリップ小屋になった所もありました。夕陽西に落ち、の曲、いまでも歌えます。運動会の終わりにこの歌を歌うとしんみりした気分になりました。
広瀬院長様
今日、関西テレビで「ちゃちゃいれマンデー」という番組を見ていました。
和歌山県では、和歌山だけで歌う「運動会の歌」というのがあると言っていたとき、
突然、遥か昔、難波小学校で歌った「運動会の終わりの歌」の一節を思い出しました。
どんな歌だったか、思い出したくてネット検索。
「夕日西に落ち~」を入れて検索するとこちらのブログにたどり着きました。
コメント欄には、懐かしい歌が・・・。
夕日西に落ちのところからしか歌えませんが、懐かしさで涙が出ました。
この歌は難波小学校だけの歌だったんですね。
私は1951年生まれで、神田中通り5丁目商店街育ち。
親戚の家に越境して通っていました。
結婚して、千葉の松戸に暮らし、転勤で1993年神戸市に引っ越し、阪神大震災に遭いましたが、何とか助かりました。
年に5,6回は尼崎の中央商店街、三和市場界隈に出かけて行きます。
小学校は統合されて名前が変わりました。
懐かしさのあまり長々と申し訳ありません。
「ねこ吉のよしなしごと」というどうでもいいブログをブログを書いています。
その中に尼崎のこともちょくちょく書いています。
コメントありがとうございます。昔の尼崎については、私のブログ画面の左上の検索小窓がありますので、”難波小学校”と打ち込み、検索していただければ、見えます。三和商店街も年々寂れていき、さびしい気がします。昔、運動会の前に地下足袋を買いに行った、三和商店街の一番奥の靴屋当たりもすっかり店がなくなっています。
路地や空き地では、女の子はゴム跳びやままごとをして遊んでいた時代でした。東難波町の実家周辺も子ども声が聞こえなくなって久しくなりました。
広瀬院長様
お返事をいただきまして有難うございます。
早速「難波小学校」で検索して、尼崎の懐かしいことを読んでノスタルジーに浸っております。
先ほど、またコメントを書きましたが、どうもうまく送信できませんでした。
もし、届いていましたら2度も同じ内容の話を申し訳ありません。お許しください。
広瀬様も難波幼稚園をご卒園されたのですね。
私も難波幼稚園です。
園長先生は田中花子先生でした。
日曜学校に行くので、毎週月曜日はお休みでした。
習う歌は賛美歌ばかり。
間違っていたら申し訳ないのですが、1951年か1952年生まれのお兄様はいらっしゃいませんか?
懐かしさにアルバムを引きずり出して来たら、私の左隣に座ってらっしゃる方が広瀬康博さんとおっしゃる方です。
クラスに歯医者さんの坊ちゃんがおられるということは母から聞いていました。
その方はお兄様ではありませんでしょうか?
昨日から運動会の歌を探し当て、少々興奮して長いコメントを申し訳ありません。
兄は広瀬康博です。現在、西宮で歯科医院を開業しています。ねこ吉さんと同級生となります。難波幼稚園については、同じくブログ左上の検索窓から検索ください。多くの卒業生がいますが、すでになく、その歴史もわかりません。昭和2年に開園ですので、田中花子園長は創立からのメンバーかもしれません。
広瀬様
お返事を有難うございました。
やはりお兄様でしたか。
西宮で歯医者さんをなさってるのですね。
「ちゃちゃいれマンデー」という番組から検索して、こんな多くのことが判って嬉しく懐かしく思います。
今日、図書館に宮本輝さんの「花の回廊」を予約してきました。
凄い大作のようで、私に読めるかどうかわかりませんが、尼崎が描かれている部分だけでも読んでみようと思います。
これからも、「広瀬院長の弘前ブログ」を読ませていただきます。
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