2026年2月27日金曜日

『家に探る苗字となまえ』(井戸田博史著、吉川弘文館、2025)

 

明治8年弘前地籍図 駒越付近


弘前の近代史を調べていると、江戸後期、幕末の人の苗字と名前につては、悩まされる。というのは江戸時代の士族は、多くの名を持っていて、さらに簡単に名を変えるため、同じ人物であっても、資料により別の人物のように見える。例えば、植物学者で弘前大学の学長でもあった郡場寛の父親、白戸(郡場)直世は箱館戦争で重傷を負い、その治療のために酸ヶ湯温泉を開拓した。白戸家の実家の場所を特定する際、徳田町にある白戸浪江の家が怪しいが、ところが白戸直世の父親の名は白戸東太郎である。さらに調べると東太郎は通称で、実名は白戸浪江であることがわかった。つまり白戸浪江(東太郎)―白戸直世―郡場寛となる。

 

こうしたこともあり、以前からこの苗字、通称、実名などについて整理したいと考えていた。最近、再販された『家に探る苗字となまえ』(井戸田博史著、吉川弘文館、2025)は参考になった。

 

この本を参照に少し解説する。

 

明治になるまで、日本の苗字、名前は複雑で、足利尊氏の弟、直義を例にすると

足利(名字) 左馬頭(官名、通称) 源(氏) 朝臣(姓) 直(実名) となる。

 

また乃木希典の父は

乃木(苗字) 十郎(通称)  源(氏) 希次(実名)  となる

 

氏は、源、平、藤原、橘の4つでほとんどカバーされ、また氏の尊貴を示す称号である姓も次第に無実化していき、通常は、苗字+官名、通称+実名が重視されるようになった。

 

大石内(苗字)蔵助(官名)良雄(実名)や堀部(苗字)安兵衛(官名、通称)武庸(実名)となる。さらに幼名、字、号などもあるし、改名も頻繁に行われたので、滝沢馬琴は35の名前があった。

 

士族については、こうした名前であったが、士族以外の百姓、商売人は、苗字はなく、主として通称で呼ばれていた。ただ明治になると、こうした通称のみでは近代的中央集権国家を確立するには不都合で、戸籍法の実施、徴兵制などを実施するには、全国民を苗字と名で掌握する必要が出てくる。そこでまず最初に出された法案は明治三年9月の「平民苗字許容令」で、さらに明治82月には「平民苗字必称令」が出され、ここで国民皆姓が完成した。

 

当初は、苗字+実名でしか認めなかったが、庶民の多くは通称、律令などに由来した官名(兵衛、衛門、助)を称していたので、権兵衛を権平に、太郎左衛門を太郎にしたが、一方、政府高官でも大久保一蔵(苗字+実名)は大久保利通、大隈重信(通称は八太郎)、西郷隆盛(通称は吉之助)にしたが、板垣退助(苗字+通称、実名は正形)や大村益次郎(実名は永敏)とさまざまで、特に実名を持たない庶民は困ったことになり、明治五年5月には実名か通称のいずれか一名ということになった(復名禁止令)。

 

こうした観点で、明治二年弘前絵図と明治八年弘前地籍図を比べると、前者は明治三年の平民苗字許容令以前のもので、士族しか名前が載っていないが、ここでの記載はほぼ苗字+通称で、苗字+実名は少ない。その後、明治8年には平民苗字必称令」が出るが、明治八年地籍図では、すべての平民にも苗字がついており、少なくとも弘前市内では国民皆姓となっていたことがわかる。さらに明治311月には国名、旧官名禁止令が出され、基本的には苗字+実名となっているものの、実際、明治二年弘前絵図と明治八年弘前地籍図を見ても通称から実名に変わったものは少ない(権平のように兵衛を兵にするようなものも含めて)。どうも日常では苗字+通称の方がしっくりくるように思ったのだろうが、次の代になると次郎左衛門のような通称よりは隆仁のような実名ぽい名前が選ばれるようになった。


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