2008年3月23日日曜日

葛西善蔵2




葛西善蔵は弘前市松森町141番地に生まれる。実家は代々続いた商家で、味噌、塩、米などを扱うほか、運送業を行っていたが、長男の善蔵が生まれて間もなく、破産し、一家は北海道にわたることになった。実家跡は、阿部誠也「あおもり文学の旅」によれば左写真の駐車場付近となっている。弘前市立郷土文学館で開催されている葛西善蔵没後80年展では実家の絵図が展示されていたが、相当広い敷地に手広く商売をやっていたのがわかる(同時に展示されていた地図をみると生誕地は阿部さんの指摘した所の反対側であった気もするが?)。その後、青森、五所川原などを点々として、最後には母の実家である碇ヶ関に落ち着くことになる。碇ヶ関小学校卒業後に勤めた質店の蔵の中で見つけた「里見八犬伝」がおもしろく、それが小説家になるきっかけになったようだ。
 左下の写真は、私が最も好きな善蔵の写真だ。小説とは違い、かなりきちんとした服装をして、長男亮三とやけにまじめに写っている。きびしい長男の表情に比べて善蔵の表情は晴れやかで、当時住んでいた鎌倉建長寺宝珠院で撮ったせいか、まるで高僧のような気高い印象をもつ。善蔵の小説は私小説とはいえ、かなり誇張されたもので、当時からかなりひんしゅくを買ったようだ。放蕩無頼で酒ばかり飲む、家族のことも考えず、自分中心のわがままな人物であるかのように小説の中では表現しているが、郷土文学館にある自筆の手紙を読むと非常に几帳面な性格であることがわかる。原稿用紙の一行の間に小さな字で二行びっしりと、きれいな楷書で書かれている。自堕落なひとであればこんな几帳面な手紙は書けないであろう。長男との写真にしても、貧乏でありながらもそれなりにしっかりした教育をしているように思える(母親の教育かもしれないが)。
 善蔵を信奉する小説家として、石坂洋次郎と太宰治がいる。破滅型の華やかな後継者である太宰は石坂に向かって、「果ては、みな一。混とんとして海である。肉体の死亡である。きみの仕事のこるや。われの仕事のこるや」と言い放った。これを言っちゃおしまいである。大衆小説家として金をもうけ、東京田園調布に住む成功者の石坂にとっても、金持ちの太宰からは言われたくなかっただろう。同時に善蔵の言葉とも聞こえ、内心忸怩たる思いもあったろうし、今日の太宰と石坂の評価も予感し得たのであろう。
 善蔵が弘前に帰省したおり、石坂と一緒に弘前城に散歩に出かけた。岩木山をみると、善蔵は急に四股を踏み、「おい君たち、ぼくはこれから岩木山と相撲をとるからな。あんな奴、一と突きで土俵の外に吹っ飛ばしてやる。岩木山、岩木山って土地の人は騒いでいるが、あんな山が一つもないから高くみえるだけで、あんな山、物の数ではない。あんなもの、山とは言わないよ。津軽衆もまたかくのごときか。喝」と一喝したそうである。それでいて東奥日報の記者として善蔵を訪ねた竹内俊吉(後の知事)が東京の雲雀の話をすると、「東京の雲雀なんてものは駄目だよ。雲雀はネ、津軽さ。津軽の田圃で鳴くのがほんとうの雲雀の歌だよ、まだ畦の草もほんの少し緑をつけたばかりのひろびろとした早春の田圃、陽炎がどこまでも果てしなくもえたつ津軽のあの田圃の雲雀がほんとうの雲雀だよ。」と話した。郷土に対する深い愛情と恨みは、太宰治や棟方志功、寺山修司などの青森の芸術家に見られる特徴であろう。また小説のためには自己の生活をすべて犠牲にするという善蔵の熱情は、キリスト教への伝道に力を注ぐ本多庸一、中国革命に一生を捧げた山田良政、純三郎兄弟、離島住民ら弱者の生活向上を訴えた笹森儀助、ジャーナリストの使命を貫いた陸羯南のそれと相通じるものがある。
 「酸素より酒のほうがいい」と死ぬまで酒を愛した善蔵も、最後は「一時ごろの汽車に乗っていくことにして、切符を買っておいてほしい」、「切符を落さないように、ちゃんとしまっておいたほうがよい」、「この野原で、ちょっと小便をしますから」とうわごとを言って亡くなった。その霊魂は希望通り故郷に帰ったのであろう。

葛西善蔵の作品の一部は、青空文庫でも見れますので参考にしてください。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person984.html
また弘前出身のルポライター鎌田彗著「椎の若葉に光あれ」(岩波現代文庫)は、善蔵への愛情あふれる好著です。
弘前市立郷土文学館では平成20年1月12日から12月28日まで「葛西善蔵没後80年展」が行われています。自筆の手紙や多くの写真が展示されています。結構男前で今でももてそうです。

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