2008年3月30日日曜日
旧藤田家住宅(太宰治まなびの家)
御幸町の弘前厚生学院の前にある旧藤田家住宅です。保存会に入っていたため、出来た時に(平成18年)にも一度行きましたので、二度目です。この家の保存に運動された故小野正文先生はじめ、関係者のご尽力には頭が下がります。当時の青森県の木村知事は、箱もの知事と呼ばれ、批判も多かったようですが、即断でこの住宅を保存していただき、最後の置き土産となりました。今の知事では無駄使いはしないため、おそらく保存できなかったでしょう。
太宰治は、今でも大変人気があり、この家は太宰が弘前高校に通っていた1927年から1930年まで過ごしたところです。親類の藤田豊三郎の妻が津島家(太宰の里)の分家筋であったことから、通学に便利ということでこの家に住むようになったようです。御幸町は第八師団が近いことから、将校の官舎や下宿が多くあったところで、当時の写真を見ると比較的小さな家が並んでいたようです。その点からみると、この家は当時付近でも、モダンで豪奢な建物だったのでしょう。写真下の六畳の間に太宰は下宿していたようで、その隣の部屋には藤田家の長男の本太郎がいました。弘前高校の生徒の中でも太宰はずば抜けたお金持ちだったようで、高校生(今の大学生)にしては料亭などにも行き、はでに遊んでいたみたいです。
この家の一階には吹き抜けの部屋があり、また窓も多く、昭和初期の建物にしては非常に明るい感じがします。一階は中廊下と呼ばれる通路が玄関から奥の台所まで続いています。家内の実家(すでに壊されましたが)も明治のころのもので、同じように玄関から土間が続き、井戸、便所、風呂、台所などの水間に連なります。この通路を挟んで左が客間、右が家にものの部屋に分けれていましたが、藤田家では左が家のものの部屋で、ここから二階の太宰の部屋に続き、右は立派な床の間、欄間をもつ、お客様用の部屋になっています。昭和期になっても、この土間のある空間が必要だったのでしょうが、今住むとこれが本当に不便です。いちいち草履をはくのは実に面倒です。
前回行った時もそうでしたが、観光コースから離れているため、見学者もほとんどいません。まあ見るといっても太宰のファン以外にはそれほど面白いものでもありません。いっそ民間のNPO法人に委託して、もっとお茶、お花、町内会のサークルに解放したらどうでしょうか。また観光地にしても芸がありません。前回、お話した小金井の江戸東京たてもの園では民間のボランティアが江戸時代の民家に何名が陣取り、観光客に地元の歴史などを語っていました。寒い時期だったのでいろりに火をおこし、観光客にお茶をごちそうしてくれたりしていました。ボランティアの人たちも古い民家の掃除をしたり、あるいはいろり端で年配の仲間で話したりして楽しそうでした。こいった民家を残すことは大変重要で、一度壊すとどうしようもありません。ただ残すだけではなく、折角の税金を使っているならもう少し有効な活用が求められます。百石町展示館のように低料金で各種グループに貸し出すとか、団塊の世代をボランティアに活用する方法など、アイデアはあるように思えます。
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