2010年3月11日木曜日

珍田捨巳10


 こういったブログを書いていると、取り上げていた人物のことが気になり、本の中でもその人物に関連したことについ目がいく。少し古い本であるが保坂正康著「昭和天皇」(中公文庫、2008)の中に、昭和天皇訪欧の際、イギリス滞在中のエピソードのことを伝える。「3週間の日程に中で、皇太子にとってもっとも印象にのこったと思われるのは、十日の夕方の出来事である。この日はまだバッキンガム宮殿に滞在していたが、日程をこなして一室に休んでいる皇太子のもとに、突然ジョージ五世が訪ねてきた。———このときは、ジョージ五世、皇太子、そして通訳にあたった林(権助)大使の三人での会話であり、三人の間にはこの会話は決して他言しないという暗黙の約束ができあがったとみることもできる。皇太子はこの教訓を自らの胸に刻み、それを守るという使命を自ら課したと今では解することが可能である」。
 イギリス王室の国民に開かれた態度と、立憲君主制度の根底をここで学んだ点では、ジョージ五世とのこの会談は昭和天皇のその後の生き方に影響を与えた点では重要である。
 ここで保坂は、当時イギリス大使の林と3人で会談したと書いているが、これはどうもおかしい。まず林は東京大学出身の外交官であるが、とりたてて英語教育を受けた経歴はなく、国王の通訳をするほど英語が堪能であったか疑問である。さらに皇太子訪欧中の現地での直接的な世話をしていたであろうが、随員ではなかったため、皇太子のそばにいつもいた訳でない。「ポトマックの桜」(外崎克久著)によれば、王室の賓客として当時宮殿に宿泊していたのは、皇太子、閑院宮、珍田供奉長、山本信次郎海軍大佐の4名で、この中で最も英語に堪能であったのはアメリカの大学を卒業した珍田捨巳であり、外務省でも珍田の英語は定評があった。また席次においても大使より供奉長の方が上であり、たまたま林大使が宮殿にいたとしても、皇太子と国王の通訳に選ばれることはないであろう。
 福田和也著「昭和天皇」(文芸春秋)では、はっきりとこの会談は昭和天皇、ジョージ五世と珍田の3人で行われたと書いているが、この方がすっきりする。珍田とジョージ五世は珍田が駐英大使のころから非常に親しいつきあいがあり、第一次大戦での日本海軍の地中海派遣にも珍田の功があったことから、この3人で語るのが、最も気の置けない会談となったであろうし、昭和天皇にとっても思い出の深いものになったであろう。

 ちなみに吉田茂は当時、駐英大使館におり、身近に昭和天皇の人となり触れたことがリベラルでありながら、後日天皇への強い尊王の心を持ったのであろう。吉田は珍田がイギリス大使であった時の一等書記官であり、同僚の斉藤博によれば、「当時、吉田さんは秘書のように、いつもいっしょに外交団と折衝しておりました。そして後輩の館員の前で「大使のしゃべる英語には誰もかないません。珍田さんのスピーチは英国人の心をうつような詩があり、論理があるからです。諸君も、もっと言葉の武器を磨きなさい」と話していました」。吉田はパリ会議にも岳父牧野伸顕、珍田捨巳とも同行しており、案外、若き吉田は珍田を外交官として尊敬し、目標にしていたのかもしれない。

 今上天皇の教育係を務めた小泉信三も、その帝王学の教科書としてジョージ五世の伝記を用いたほど、昭和天皇にとって、あるいは現在の皇室にとっても、訪欧でのこのこじんまりした会談は印象深く、また皇室の方向を決定したように思える。写真左のステッキを持っているのが珍田であろう。

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