2010年3月7日日曜日

郡場寛



 郡場寛(こおりば かん 1982-1957)は青森市栄町に生まれた植物学者で、津軽藩士の郡場直世と三上フミの間に生まれた。夫の直世は酸ケ湯温泉の開発者であるが、寛の生涯に決定的な影響を及ぼしたのは母フミである。母フミは毎年、子供達にお年玉として「いくら成功してもふき掃除を忘れてはいけない」とぞうきん3枚を送ったいう。このブログでは主として弘前出身の偉人を紹介しているが、郡場も母フミが弘前出身で、郡場自身も晩年弘前大学の第二代学長をしていたこともあり、ここで紹介する。私が一番感銘を受けるのは、Wikipedia で紹介されている次のエピソードである。

 1945年8 月の日本敗戦に伴って、同年9月11日、ジュロン島の連合軍捕虜収容所に入る。このときコーナーたちは郡場の釈放を英軍司令部に願い出たが、郡場は敢えて同胞と共に収容所に留まることを希望。コーナーは「私の心を激しく打ったの は勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さと言うより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗 残者はいまや勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つとはこういうことを言うのだ」[4]と 回想している。

 郡場は京都大学理学部部長を退官後、1942年に陸軍司政長官としてシンガポールに赴任する。そして植物園園長、博物館館長をしていたが、前任のイギリス人学者ホルタムやコーナーらが投獄されるのを阻止し、研究を続けさせた。当時の状況からすれば、敵対国の学者をこれだけ擁護するのは、郡場自身にも危険なことであっただろうし、相当苦労したことであろう。学者としての精神的な高貴さを垣間みる。さらに負けてなお、その好意に甘んじることなく、進んで捕虜になる道を選んだ行為はイギリス人のジョンブル魂を揺さぶったのであろう。

 郡場の偉大なところは、戦前ほとんど著書を著さなかったことであり、その理由を「桑を食べるのに忙しくて、糸をはくとこまでいかない」と述べている。おそろしいほど豊富な知識がありながら、学問に対してはあくまで真摯で、あくことない学問への探究心、畏敬を表す。72歳になり弘前大学の学長に推されるが、「研究があるから」と3度も断った。木原均はじめ多くの日本の偉大な植物学者を育てたが、こういった精神的な面での師匠であったのであろう。

 さらにその死生観はあくまで植物学者として貫徹しており、以下のような理由で遺骨は愛する八甲田山に散骨された。

人間ハ生ヲ天ニ亨ケ動植物ニ養ハレテソノ天命ヲ全フスル 火葬サレルト有機物ハ烟トナツテ昇り雨卜共ニ降り再ビ動植物更ニ人間ニモ入ルガ骨ハ無機物卜共ニ残ル 此中ニハ植物ノ好ム燐酸石灰ガ多分ニ含マレル 植物カラ得タ養分ノ死蔵デアル 粉末ト シテ植物ニ与ヘル方ガ物質運転ノ廻路ヲ早メ天意ニ即スルノデアルマイカ 土葬ノ場合ニハ殊ニ死蔵サレル部分ガ多イ 之ヲ自分ノ遺物トシテ保存スルノガ果シ テ適当デアロウカ 個性へノ執着デハナカロウカ 若シ子孫ガ追慕シタイノナラバ墓碑ダケデモ充分デアル ソレモ決シテ永遠二残ルモノデハナイ
個性 ハ二次的デアル 二次的ナ個性ヘノ執着ヲ我ト観ズルノハ末ダ悟ラザル階程デアル 霊魂不滅ノ老モ個性ヘノ執着デアル(「遺稿集」1958年、43頁頁収 載。)

 弘前の本町で生まれたモースの弟子、岩川友太郎博士(1854-1933)も日本の生物学の草分けで、日本の貝類学の先駆者として大きな足跡を残した。このひとの生涯もおもしろいのでいずれまとめるが、幼少のころ、口減らしのため寺の小僧になり、そこを飛び出し、武術の修得、その後藩校の海軍局で機関学を学び、途中から英学寮に移り、英語を学ぶ。そして東奥義塾の英語の教師として迎えられたが、さらに学問の向上のため、東京外国語大学を卒業し、そこから東京大学の動物学を専攻してモースに出会い、生涯の学問である生物学の道に進んだ。卒業したのは28歳であった。誠にめまぐるしい青春時代で、明治人らしい。

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