2010年5月5日水曜日
柏原長繁と藤田潜兄弟
前回、柏原櫟蔵、山澄吉蔵についてふれ、郡司成忠らの千島探検に関連したと書いた。休日のため、弘前市立図書館に行き、調べた。
「北の水路誌 千島列島と柏原長楽」(外崎克久著 清水弘文堂 1990)にくわしく書かれていたので、引用する。柏原櫟蔵(1852-1900)は、幼名を楽蔵といい、明治2年地図には幼名で記載されている。明治になり柏原長繁(ながしげ)と改名する。父は藤田尚次郎の次男として津軽藩江戸藩邸二つ目中屋敷で生まれた。兄は藤田潜で、この本で実は兄弟であったことがわかった。婚姻関係が複雑である。明治4年、19歳の時に、上京して攻玉塾、その後、海軍に入り、軍艦「磐城」の艦長として郡司成忠らの千島探検に協力する。ちなみに笹森儀助がこの探検に同行するが、同郷の柏原の協力によるものであろう。
藤田潜は幼名を徳太郎といい、同じく津軽藩江戸藩邸で生まれた。明治2年地図では徳二郎となっているが、藤田潜の父は尚次郎、祖父は次郎、曽祖父は冨次郎と代々次郎の名前であり、ほぼ同一人物であろう。明治4年に柏原と相前後して弘前を去り、静岡に行く。当時、静岡学問所は洋学においては日本最高峰であり、ここで英語を中心とした洋学を学び、その後、山澄吉蔵(直清)の関係から攻玉社で働くことになる。ちなみに潜の子、尚徳は後に海軍大将で、昭和19年から21年まで昭和天皇の侍従長を務めた。
攻玉社と弘前の関係は深い。山澄直清は25歳の時に津軽海軍振興のために藩より派遣され、幕府軍艦操練所に入学する(NHKの龍馬で今ここが出ています)。この時の教授が後に攻玉塾を作る近藤真琴であった。その縁もあり、攻玉社では山澄は副社長であった。山澄を通じて、攻玉社と弘前のつながりができた。明治3年から20年の間に、51名の青森県出身者が攻玉社に入学したし、先生として在籍した者だけでも13名もいたという。
加藤三吾も攻玉社に明治16年入学し、その後教員として務めた後、沖縄に行沖縄研究を行った。また出町良蔵も明治17年入学し、卒業後は一旦東奥義塾に勤務後、攻玉社の教員となった。ちなみに出町婦人ふさは加藤三吾の妹である。藤田潜は明治20年には、普連土女学校の創立にも関わった。普連土女学校はクエーカ教徒のジョセフ・コサンドと攻玉社英語教授の久野英吉が作った。今の普連土学院のことであり、学校紹介を見ると、地味ながら立派な学校である。
こうして見ると、江戸から帰ってきて、明治2年当時、弘前市富田新町に住んでいた若者達は、競うように明治4年ころには上京した。東京生まれの津軽藩士にとっては、故郷の弘前は縁故も少なく、なかなか住みにくいところであったのであろう。その一方、富田新町に住んでいた者同士は、境遇が近いためか、明治になってからお互いよく協力し、その多くが攻玉社とつながっていく。「北の水路誌」には、よく調べたと思うが、藤田潜邸の広さは198坪、建坪は100坪で残りは畑で、それ以外にも郡部に農地をもっていたようだ。それを誰それにいくらで売って上京したということまで書かれている。あの地図で見ると、土地は細長く、狭いように見えるが、実際は結構広い。
ちなみに前回のブログで述べた比良野貞固の名前は新寺町にはない。また地図の由来について調べたが、これも収穫はなかった。
写真上は軍艦「磐城」、写真下は郡司成忠である。ちなみに成忠の弟成行は、幸田露伴のことである。
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