2010年5月27日木曜日

妻と家族のみが知る宰相




 「妻と家族のみが知る宰相」(保坂正康著、 毎日新聞社)を読む。犬養毅、東条英機、鈴木貫太郎、吉田茂の妻、家族を通じて、昭和を代表する4人の首相の実態にせまった著書である。保坂さんの作品は好きで、ほとんど読んでいるが、昭和史をできるだけ多方面から見直し、その実像を解明しようという態度には敬服する。

 この著書で取り上げられた首相のうち、とりわけ感動を覚えたのは鈴木貫太郎の臨終の場面である。妻タカの語る鈴木貫太郎の臨終の模様を保坂さんの本から引用する。「亡くなるとき、荒く、大きかった呼吸がだんだん静かに、小さくなって行きましたが、このとき室内に、30人ぐらいの家人や親しい方がいて、病床を取り巻いていました。私は背を撫でていましたが、その人々が一人一人手をにぎり、お別れして下さいました。そのとき誰の口からともなく、観音経の偈が唱えられました。 念彼観音力 衆怨悉退散 30何人の人が、一人残らず、念彼観音力と唱和しました。庭にも農事研究会の人たちはじめ、たくさんの方がいらっしゃいましたが、この方たちも、一緒に読経に唱和されて、いいようもない荘厳な死を迎えたのでございます。」
これほど感動的な死の迎え方もない。鈴木貫太郎は、日露戦争、5.15事件、戦後の襲撃事件と何度も死ぬ目にあいながらも生き抜き、明確な死生観、自らの務めを懸命に果たすことを貫いた。父母に対する孝心、天皇に対する深い敬愛はこの人の素朴な日本人としての資質であり、海軍大将、首相になっても、その態度は変わらなかった。 

 高齢にも関わらず、昭和天皇から直接「鈴木頼んだよ」と日本の最も困難な時期に首相を引き受けた。鈴木にとっては、死はとるに足らないものであったが、その責務の重要性、昭和天皇の真意を知っていただけに、よほど覚悟がいったのであろう。一方。昭和天皇にとっても牧野伸顕のいない宮廷では最も頼りになる存在が鈴木であったのであろう。

 妻タカは昭和天皇が4歳から15歳までの養育係であり、また鈴木本人も昭和初期に侍従長をしており、天皇も鈴木の性格は熟知し、なお信頼しており、終戦という幕引きを成し遂げるのは鈴木しかいないと思ったのであろう。
このブログでもたびたび登場する弘前出身の珍田捨巳も高齢にも関わらず、最後の奉仕として昭和天皇の侍従長としてつかえ、即位の礼を全うして死ぬ。そしてその後任として鈴木を侍従長に使命した。もし珍田が鈴木を使命していなかったら、昭和天皇も鈴木を深く知ることはなく、終戦時の首相に使命しなかった可能性もある。運命的である。また終戦時の侍従長藤田尚徳は津軽藩士藤田潜の息子であり、これもまた運命的な巡り合わせであった。さらに言うと、保坂さんの取り上げた他の3名の宰相のうち、犬養は山田純三郎と孫文を通じて関係が深く、吉田茂は珍田の駐英大使時代の部下であり、天津領事の時は山田純三郎とも懇意であった。こういったことで弘前出身者とも関係は深い。

 話を戻すと、鈴木貫太郎のように何度も死線を超え、それも一歩間違えると殺害というむごたらしい死に目に会いながら、最後には前述したようなみごとな臨終を迎えることができたのは、鈴木に対する神のよくやったという褒美かもしれない。保坂さんは吉田茂の晩節の権力欲を嘆いているが、確かに鈴木にように自分の使命を果たすとさっさと権力を捨て農民になった潔い生き方に比べると、吉田の晩節はその業績の大きさを知るだけに悔やまれる。

 Wikepediaでは鈴木貫太郎の妻、足立タカについては昭和天皇にキリスト教を感化した人物のように書かれているが、明治期のキリスト教徒、例えば珍田捨巳、山田純三郎、本多庸一らを見ても、彼らは戦後のキリスト教徒のイメージとは異なり、むしろ武士的行動規範を根強く残しており、天皇に対する尊王の気持ちは非常に強い。鈴木貫太郎においてもお盆には帰ってくる先祖をお迎えするために紋付袴に着替えて門前で頭を下げたという(P184)。当然妻のタカも行動を共にしたのであろうが、それは素朴な庶民としての信仰態度であり、キリスト教徒は異教のことは無視するといった偏狭な気持ちは一切ない。最近では天皇家に対するキリスト教の浸透を大げさにさわぐ著述も目につくが、ことに昭和天皇は優れた識見をもつひとであり、珍田、鈴木あるいはその妻タカのような純朴な人格を愛したのであり、あくまで人物に感化されても信仰自体には厳然と一線を画していた。

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