2010年11月24日水曜日
笹森卯一郎
笹森記念体育館というと、弘前のひとは追手門広場内の体育館を思い出すだろうが、実はもう一つ長崎にもある。長崎の私立鎮西学院高校にある笹森記念体育館で、平成元年にできた。
弘前の笹森記念体育館は、東奥義塾を再興し、戦後は国務大臣などを歴任した笹森順造を記念したものであるが、鎮西学院のそれは笹森順造の兄、笹森卯一郎を記念したものである。笹森卯一郎はつぶれかけていた長崎鎮西学院の再興を、弟順造は廃校になっていた東奥義塾を再興し、兄弟で同じようなことを日本の東西で行った。
笹森卯一郎(宇一郎 1867-1911)は、弘前市若党町93番地の笹森要蔵の長男として生まれた(写真右下に笹森要蔵の名がある)。父要蔵は、宝蔵院流の十文字槍の使い手で、弘前藩の御武庫奉行を務めていた。明治維新後は困窮したが、5人の子供の教育には熱心であった。5軒隣には卜伝流の小山儀三郎道場(導場)の名前が見えるが、本来ならこの道場に通わせるはずだが、明治の早い時期にこの道場は閉められたようだ。そのため岡兵一らとともに、要蔵は稽古場、北辰堂を明治16年に長坂町に作り、そこに自分の子供を通わせた。
卯一郎は自宅近くの亀甲小学校を卒業後、明治13年に県立の弘前中学へ進んだが、海外への飛躍を望み、翌14年には東奥義塾に転校する。ここで本多庸一らの影響を受け、明治16年にキリスト教徒となった。明治18年には東奥義塾を卒業し、念願だったアメリカ留学も外国人宣教師や後の外務次官となる珍田捨己の尽力でアメリカ、デポー大学に行くことになった。同行する学生は、高杉栄次郎、益子恵之助、長谷川哲治の四名であった。この内、高杉栄次郎は卯一郎に住むそばの小人町の出身である。座頭ノ頭支配所の前に高杉英三の名前が見えるが父親である。長男高杉栄次郎は、デポー大学卒業後は、母校東奥義塾に戻り、青山学院、ハーバート大学、東北大学で教鞭に立ち、最後は長らく北海道大学の教授をしていた。次弟の滝蔵は同じく、デポー大学に留学後、早稲田大学で西洋哲学を教えた。また早稲田大学では長らく野球部長を務めた。末弟の良弘はインディアナ大学、コロンビア大学で哲学、法学博士の学位を得て、その後は実業界で活躍した。いずれも熱心なキリスト教徒であった。3人揃って、東奥義塾からアメリカ留学し、博士号を取得した優秀な兄弟だった。
ついでに言うと。笹森卯一郎とは幼なじみでアメリカ留学も一緒だった高杉栄次郎は、長崎の鎮西学院に教授として就任に、卯一郎とともに学生教育に励んだ。さらに明治34年には、同じく弘前市山下町出身の吉崎彦一(1870-1925)が教授として鎮西学院に赴任してきた。吉崎は東奥義塾を卒業後、カリフォルニア州立大学、ノースウェスタン大学、シカゴ大学で計12年間学んだ後、帰国した。調べると、山下町の今東光の父の実家の3軒隣に吉崎奥左エ門の名が見える。父親か。他には東奥義塾卒業後に、アメリカのパデュー大学、ミシガン農学校で10余年間神学と農学を学んだ海老名昌一も明治36年から鎮西学院で勤務する。こうして4名の弘前の人が同時期、鎮西学院に勤務した。
明治期、東奥義塾からアメリカの大学に留学したものは40名、逆にアメリカから弘前にやってきた宣教師は34名、東奥義塾以外にも弘前中学校、早稲田大学卒業後にアメリカの大学で学び、日系ジャーナリストとなった御徒町川端町生まれの藤岡紫朗のような人物もいて、明治期の弘前の若者は東京大学を頂点とした学閥官僚システムに乗るよりは、いきなりアメリカを目指した。少なくとも若党町、小人町のような小さな町内からも笹森兄弟、高木兄弟の5人のアメリカ留学生がいて、かの地で博士号をとった。明治期という時代を考えると、辺境の弘前の地でのこういった現象は特異なことと思える。例えると、田舎のある高校で、卒業後、毎年数名、アメリカのアイビーリーグの大学に留学し、一年目からアメリカの学生を押しのけて優秀な成績をとり、博士号をとってくる、そういった教育が高校の間に行われていた。授業はすべてアメリカの教科書を使って行われていたようで、今はやりの大学の国際学部の内容である。
笹森卯一郎については,鎮西学院創立125周年を記念した出版された「火焔の人 教育者にして伝道者 笹森卯一郎の生涯」(松本汎人著 鎮西学院)という大著があり、鎮西学院時代の笹森の事柄をくわしく説明されている。その緒言に「長崎の史家・福田忠昭が1918年に編んだ「長崎県人物伝」には太古から現今まで長崎に生まれ、あるいは渡来して各分野で活躍した人物千数百人が網羅されている。その中で、遠く陸奥に生まれた笹森卯一郎の経歴が約一頁にわたって紹介されている。わずか18年にも足りない長崎での生活であったが、その優れた人物と事績とによって、立派に「長崎人」と認知された証左である」と最大級の賛辞が書かれている。弘前出身者が遠く離れた地で、こういった書物により、その偉業を紹介されるのは、うれしいことだ。笹森自身は45歳というこれからという時期で亡くなり、妻敏子には五男一女が残された。敏子は保母と英語塾をしながら立派に子供達を育てた。笹森敏子は、弘前市山道町の三上昌治、みね夫妻の長女として明治4年に生まれた。高等小学校卒業後の明治17年に函館の遺愛女学校に進み、同校卒業後は弘前女学校の英語の教師をしていた。女子としては相当高等教育を受けたひとりである。明治2年地図には山道町には三上の家はなく、すぐそばの住吉町に三上観吉の名前が見えるが、ここが実家か。また卯一郎の父要蔵がなかなか信徒にならなかった理由として長年親しんだ酒をやめるのがいやだったとの記述がある。息子、娘、妻までが熱心な信徒で、メソジスト派では禁酒、禁煙、歌舞謡曲、カルタ遊びなども一切禁止していた。もちろん賭博、買春などはとんでもないことであった。長いこと要蔵も悩んだが、ある日こつ然と徳利と盃を庭でたたき壊し、禁酒を誓い、受洗した。ちょっとかわいそうな気もする。
長崎の鎮西学院と弘前の東奥義塾はよく似た経歴の学校であり、その両方の再興に笹森兄弟が関係したのは偶然とはいえ、興味深い。
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