2010年11月18日木曜日
明治4年地図の△マークのなぞ
昨日、弘前観光会館で行われた、弘前観光ボランティアガイド養成講座で話をしてきた。以前にも山田良政、純三郎兄弟について話をしたが、今回は明治2年地図の実物を是非ともボランティアガイドの皆さんにも見せようと思い、一條敦子代表にお願いしてこちらから提案させてもらった。こういった地図は一旦、図書館や博物館に入ると一般人がなかなか見ることはできないので、私のところにあるうちはできるだけ、皆さんに見てもらおうと思っている。先週は、弘前ロータリークラブの会員に、今週はボランティアガイドの皆さんに見てもらったことになる。今後も何かの機会があれば出かけていって色々なひとに見てもらおうと思っている。
ボランティアガイドの皆さんも実物の地図をみて大変興味を示されていた。やはりこういったものは写真ではなく実物をみるとイメージは随分違う。その折に、弘前観光コンベンション協会の今井さんから、大変貴重なお話を聞けた。今井さんの家は代々若党町にあり、明治2年地図にもご先祖の名前がある。家にも古い地図があり、明治初期にはここ若党町は空地が多く、空地の部分を明治2年以降に追加記入されたものではないかということであった。明治初期には、隣から4、5軒は確か空地であったはずと、あたかも数年前のことのように話されていた。それについて、明治4年7月の士族在籍引越際之地図(弘前市史の付録をコピーしたもの)を見ると、不鮮明であるが、名前の上に△マークがある。よく見ると、若党町だけでなく、白銀町などかなり多くの家に△マークがある。これは何であろうか。
弘前市の初代の市長は、菊池九郎であるが、もともと菊池家は長坂町にあったが、明治4年に蔵主町に居住し(現在の県合同庁舎の向かい側)、弘前基督教会も初めはここが集会場だったようだ(弘前今昔4、蔵主町、荒井清明著)。すなわち、菊池九郎は明治2年には長坂町35番あたりにあったが、明治4年には蔵主町3番あたりに引っ越したことになる。するとこの△マークは明治2年から4年に引っ越した家を表すマークとも考えられる。士族在籍引越際之図というタイトルがつけられているが、これは明治2年から4年、とくに明治3年10月に施行された帰田法、これは領内の地主から土地を取り上げ、職を失った武士にこれを与え、在方に置くことで、士族を自作農家にさせるものであった。結局失敗に終わるが、多くの武士が元々の土地を離れ、郊外に移り住んだ。さらに禄を断たれた士族の中には故郷を離れ、上京するものもいて、明治2年から4年にかけてかなりの変動があったと推測できる。同様に明治2年地図では、鷹匠町小路にあった儒学者櫛引儀三郎の家も明治4年地図には△マークがつく。儀三郎は明治4年に羽野木沢村(五所川原)に隠棲し、農業に従事した(弘前今昔5、錯斎櫛引儀三郎、荒井清明著)。
再び、若党町に話をもどそう。若党町の西の一区画を見てみると、ここには明治2年地図では16軒の家があった。明治4年地図ではそのうち10軒に△マークがついており、引っ越したのであろうか。とくに北側の8軒については横嶋家と小田桐家を除き、すべて△マークがついている。一時期、ここらはほとんど空き家、空き地ばかりになったのであろう。ついでに言うと、東奥義塾を再興した笹森順造の生家は若党町49番地となっていたため、別の場所を生家と以前のブログで紹介したが、よく見ると若党町93番地、春日町側に笹森要蔵の名前が見える。笹森順造の父親である。ここが生家で、以前のブログでは間違った場所を紹介して申し訳ない。
△マークを探していくと、城近くの下白銀町の家老などの大きな家はほとんど△マークがついている。また若党町では△マークが多いのに、隣の春日町では比較的少なく、△マークの密度が町により異なる。それでもも△マークが引っ越した武家を表すとすれば、この2年間に移住した士族の数は相当なものである。
さらに明治4年地図と2年地図を比べると、最勝院と大円寺の書き方は両者で違う。明治3年に移転したので、当然である。また明治2年地図にあれほど書かれていた鉄砲訓練場はほとんどなくなり、田町の火薬工場も姿を消している。軍隊も中央主権に移ったため藩独自の軍備が必要なくなったからである。また和徳、亀甲などの各所にあった武士への扶持米の支給所もすべて姿を消し、明治4年地図では和徳町の倉庫は魚市場となっている。このように2年の違いを両方の地図では割合正確に示している(前回の最勝院のところで、八幡神社の説明がひとつ抜けていたので、追加する。八幡神社の奥の森について「高林昔し天狗住し」の説明が明治2年地図にある。天狗伝説があったのか。明治4年地図には地主堂の記載もない)。
こういった見方をすると明治2年と4年では、わずか2年しか違わないが、それまでの江戸の体制がこの2年間に急速に明治の体制に変化した時期であった。両方の地図をざっと見ただけでも、統治者だった武士層がこれだけ急激に舞台から姿を消すという状況は、明治という時代が、いわゆる革命であることがわかる。今後、両方の地図をさらに研究することで、こういった明治の革命性を地図からも読み解くことができると思われ、研究者による解明が期待される。
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