2010年12月5日日曜日
函館「佐藤安之助の墓」2
前回のブログで、函館にある「佐藤安之助の墓」について、弘前藩譜代の藩士の墓ではないかとしたが、本日図書館で調べると、どうやら私の間違いのようである。たまたま同姓同名で、函館二設口の墓の主は駒越村の安之助のようである。間違った記述をして申し訳ない。
「津軽近世資料7 弘前藩記事五 」(坂本寿夫編、 北方新社 1994)の弘前藩記事61 戦死履歴其二に「佐藤安之助 陸奥国津軽郡弘前駒越村の平民なり。文政9年8月18日、同所に生る。祖父は佐藤伝右エ門、父は藤助と称す。母は同郷平民田代村田沢孫右エ門の長女なり。明治元年10月、松前の役、元鹿児島藩士伊集院宗次郎の軍夫となり。従て航す。同二年4月、二股の戦、銃丸に中て死す。其屍を同所中に埋む。同年12月(津軽)承昭死を憫み、毎年米五苞を其親族に与えて祭資に供せしむ。其書に曰く、駒越村安之助 当夏松前渡海。二股の役、銃丸に中て相果候段、不憫の事に候、仍為祭資毎年五俵づつ永世被下候事 明治二年12月 民事局」とくわしく書かれている。また明治3年9月に常盤坂の大星場の西側に落成した招魂社で戊辰戦争、函館戦争で亡くなった津軽藩兵の招魂祭が行われた。その時の「招魂祭調」には「安男霊 駒越村安之助 薩州人数へ御貸郷夫」となっている。名字は後日加えたとなっており、従軍時は駒越村の安之助であったが明治4年の姓尸不称令により名字を名乗ることができるようになった。また明治二年の松前戦争届には、函館戦争当時の弘前藩従軍の詳しい報告が載っており、藩士、軍夫の討死、深手、浅手など死傷者の名前が記載されているが、安之助の名前は見えない。おそらく薩摩軍に所属していたためであろう。
函館戦争では弘前藩からも多くの戦死者がでた。例えば若党町からも「高杉尚良 左膳と称す。弘前市若党町に居り、世世禄200石を食む藩士たり。天保6年馬屋町に生まる。死する時35 家督は静太郎」と高杉左膳という足軽頭が函館桔梗野で戦死した。2010.11.24のブログに出した若党町の地図に、高杉静太郎の名が見える。また同じく若党町の葛西清生という人も戦死している。24歳であった。父の名前は次郎兵衛(文弥)で、同じく地図上で葛西次郎兵エの名が見える。
昭和3年発行「青森縣総覧」(東奥日報)に記述されている明治33年以降(昭和3年まで)の青森県からアメリカへの留学者115名について名前を載せる。別に移住者の項目があるが、ここでの留学者の中にも移住目的のものを多数いるようだ。山田良政、純三郎兄弟の二男晴彦、四男四郎の名前が見える。二人ともアメリカに行ったきりのようである。メソジスト宣教師の名前が数名見られるが、ほとんどのひとは無名であり、二男、三男、四男の名前が多いことからも、一旗揚げようとアメリカに渡ったひともここに含まれる。
留学者(米国)
川村武三郎、小笠原直三、成田とみ、木村千代太郎、山田四郎(山田兄弟四男)、佐々木章之助、対馬良二、水木音弥、長谷川浩、中里常人、木村むめ、西村近應、宮田雄二郎、大溝啓二、山田清彦(山田兄弟二男)、宮川栄七、坂田善吉、上田彗範、松本たき、桜田三次郎、後藤小三郎、三上庄吉、鎌田通、松森敬三、三上善五郎、菊池辰男、島本盛、小平みつ、石沢藤次郎、新井田四郎、廣田順吾、藤田元三郎、柴田徳次郎、工藤まき、高杉栄次郎、工藤敏雄、楠美久次郎、田戸関繁太郎、新岡喜代志、伊東久蔵、菊池武次郎、佐藤豊三郎、中畑四郎、藤田浅吉、高橋ます、大和田良三、櫛引淳太郎、境八百四郎、村元元清、工藤要、棟方武次、立藤鉄三郎、鳴海要助、島中大和、工藤盛勝、大阪力次郎、鈴木陸奥夫、長尾大介、藤田徳蔵、川原政憲、吉田善五郎、湊稲雄、小木勇蔵、長谷川久太郎、杉山金太郎、須郷健太郎、安田清、棟方八郎、栗村仁、白沢甚助、佐々木徳一、長尾民三郎、柴谷興三右衞門、小平三郎浩、小野藤右衞門、鎌田健吉、小島忠郷、宮城逸、大和田四郎、杉山純一、福井善祐、斉藤豊次郎、斉藤冽泉、倉岡藤吉、熊井田次郎、小原良吉、宮本留助、吉田健四郎、阿部友一、藤川正詮、武林清一、蝦名健四郎、野呂久蔵、森真四郎、佐藤栄四、鈴木貞見、栗村直衞、白鳥基正、七戸賛三、藤田正之助、小島忠郷、杉山瀧次郎、斉藤清三、葛西孝雄、兼田秀雄、磯部唯浩、磯部わさ、三浦嘉八郎、須貝止、島川勉、斉藤庫次郎 (明治33年以降、昭和3年までのアメリカ留学者)
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