2011年3月10日木曜日
山田兄弟35
明治2年弘前地図の大型印刷ができたので、関連施設、注文先に順次送付している。買ってきた箱が大きく、それにBOサイズの地図を丸めて入れ、送付したが、送られた先では、大層な箱に一枚の印刷物だけが入っていたのに驚いたかもしれない。折り目がつかないようにするために、こうなったのでご了承いただきたい。ブログにて地図の購入を募集したが、問い合わせは、ほとんどが東京、関東在住の方からで、それもすべて親が弘前出身の方であった。地元からの注文は友人以外にはなかった。
先週は、弘前市立図書館へ、本日は弘前博物館に印刷した地図をもって、寄贈に伺った。突然の来訪にも関わらず、双方とも丁寧に対応いただき感謝している。図書館の話では、寄贈は受けるが、寄託は今のところは受けないとのことであった。また博物館の方は、寄託も受け入れるが、収納場所が狭く、受け入れるかどうかはもう少し検討したいとのことであった。
地図データが入った冊子も現在、印刷所を決定し、投稿済みで、もう少しすれば、校正、発行となる。5月くらいまでには冊子も完成できそうである。4月には弘前大学の先生と一度、話し合いを持ちたいが、できれば、どこかに寄贈、寄託する前に、専門家による分析を行っていただき、きちんとした研究報告をしてほしいと思っている。その後、保管、保存のために公共機関に収めればよいと考えている。
今月は東京のT氏から、山田兄弟と孫文の人形を台北駐日経済文化代表処のロビーに置くことが決まったとの報告を受けた。この人形は、平川市で独学でユニークな人形を製作している木村ヨシさんの人形で、「中国革命は第二の明治革命である。中国と日本の協力がなければ、アジアの復興はない。アジアの復興ななければ世界の平和はない」と常に孫文が語る様子をイメージしながら人形で表現したという(創作きものとヨシ人形 津軽新報社)。木村ヨシさんの人形は平川のアップルランドの売店に展示しているので興味のある方は見てほしい。
このメールの5分後には観光ボランティアガイドの方からメールがきた。春のコースに在府町も入れ、できれば山田兄弟についても観光客に紹介したいとの問い合わせがあった。偶然とは言え、山田兄弟に関連することが続き、うれしい。できれば台湾、中国からの観光客用に、山田兄弟の紹介および貞昌寺の碑についての中国語のパンフレットを作っていただくよう要望した。実際、アップルランドのひとに聞くと、台湾の観光客を案内すると、なぜ弘前に孫文と蒋介石が書いた碑があるのかと驚くようである。新寺町の雰囲気、あるいは昼食には近くにそばのうまい「會」もあり、観光客にも十分に満足できるところである。またここから加藤味噌醤油の所の坂を下り、唐金橋から禅林街への道筋も気分のいいところで、自転車で行くにはちょうどよいコースである。
「近代青森県の100人を語る」(八戸地域社会研究会 1983年)に今東光の母親あや(綾)についてのおもしろい話が載っていたので紹介する。
「日韓合併の時に近所の家で日章旗を立てないということで、ひどく警察官にとっちめられておったわけです。それを見て東光のお母さんは「そりゃ立てない人もあるでしょう」と言ったというんですね。あの厳しい時代ですよ。そしたら警官が「何だ」と言うから、「合併された韓国の人たちは、ちっとも日の丸を立てるような気持ちにならんでしょう」と言った。それで「お前は朝鮮人か」と言われてね。「そうかもしれません」なんて言ったらしいんです。どこかそういう反骨の精神があったらしいですね。女ながらに」
日韓併合は明治43年であるから、あやが42歳ころの話である。あやは当時の日本の女性としては最高の教育を受けた一人で、高い自負もあったのであろうが、この逸話には女としての男に対する反骨、一般人から権力者(警官)に対する反骨、日本政府に対する反骨が含まれており、こういった津軽の精神的な気質は今東光に受け継がれただけでなく、津軽人全般に当てはまるものであろう。結構好きな話であり、これではあの毒舌の今東光和尚も母親には頭は上がらなかったであろう。
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2 件のコメント:
私の親戚に大正14年当時上海に向けて大きなビジネスをしていた人が、山田兄弟の従兄弟である菊地良一氏等を首脳とする対支憂国同志「アツマリシャンハイ」なるグループから支援要請をされ、それを受け入れ援助したとか、両国の軍事衝突を回避させる努力をしたとかの記録を残している人がいます。菊地良一氏は当選6回を重ねた代議士だっと聞きますが、山田家と近い菊地家の系統のご子孫も地元にはおられないのでしょうか。私はこの「アツマリシャンハイ」を調べたく思っているのですが、手がかりを求めてネット検索していて、このブログにぶつかり第1回から通して読ませて頂きました。菊地家のその後が分かればと期待しています。
お返事が遅れ、大変申し訳ございませんでした。スパムになっていました。「アツマリシャンハイ」というグループは初めて知りました。いつ頃の話でしょうか。昭和14年ころには、近衛文隆、小野寺機関らと、山田純三郎、菊池良一が一緒になって日支和平工作をしたような記録がありますが、これが「アツマリシャンハイ」と関係するか、わかりません。
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