2011年3月21日月曜日

大阪万博


 大阪万国博覧会があったのは、ちょうど1970年でしたから、私は中学2年生でした。自宅からは1時間くらいでしたので、春から秋の会期中に4、5回は行ったでしょうか。朝早く兄と一緒に、千里の万博会場に行き、1,2時間ゲートで待ち、開門と同時にダッシュです。アメリカ館、ソビエト館の人気が高く、ダッシュして行ってもすでに長蛇の列で、それでも2時間ほど待ち、何とか見学することができました。月の石は見たはずですが、今やすっかり記憶にありません。

 当時、外国というと「兼高かおるの世界の旅」というのが、毎週日曜日の9時ころからテレビでやっており、その知識くらいしかありませんでした。世界中にはこんな国があるのか、兼高さんは英語がしゃべれてすごいなあという感想はあったのですが、実際に海外に行くことなんて当時は夢にも思いませんでした。そういった時代の万博です。六甲学院には外人教師が多かったのですが、それでも外人自体が非常にめずらしく、私などは万博では身も知らない外人にサインをもらったくらいです。フランス館に行き、そこで始めたフランス料理、と言っても今で言う簡単なランチですが、それでもそんなものは生まれて初めて食べるもので、へえフランス料理はこんなんだあ、兼高さんがフランスで食べていた料理はこんなんだと思ったりしました。当時でも、洋食屋もたくさんあり、カレーライスやナポリタン、ハンバーグなどは食べていましたが、それ以外の西洋料理は万博で初めて食べたような気がします。

 当時の恥ずかしい話として、うちの母親が大阪本町の問屋から、親戚がそこで店をしていたのですが、夏用の短パン買ってきました。チェック柄の薄い素材のパンツで後ろにはポケットもついています。少し短い形状でしたが、夏場は涼しくていいわということで、夏休みの万博をはじめ、よそに遊びに行くときはいつもその短パンを履いていました。ところが1年後、阪神尼崎の尼センで買い物をしていたところ、母が「去年買った短パン、あれ下着やったんや」と言い出します。見ると下着コーナにあの短パンが置いています。慌てて見ると、全く同じ柄で、後ろにポケットのある下着、今で言うトランクスがその店に置かれています。そう母親は短パンとトランクスを間違え購入し、兄と私は一夏中、ブリーフの上にトランクスを履いて、万博にも行った訳です。その格好で日本館の前で撮った写真があります。母いわく「下着にポケットつけるのがおかしい。こんなことするから短パンに間違える」と言い訳していましたが、今でも本当に恥ずかしい話です。これが最初にトランクス型の下着に出会った瞬間です。それまで下着というとブリーフ、それもBVDの下着が最高におしゃれと考えていましたので、このトランクスはショックでしたし、未だに後ろのポケットの用途はわかりません。ちなみにジーンズを始めた履いたのは、昭和42年、小学校5年生のころで、尼崎の三和商店街の入口の前の道を右に折れたところに今のアメリカ屋みたいな店があり、そこで初めてリーバイスのジーパンを購入しました。当時、一種のミリタリーブームでそういった店ではアメリカ軍放出のジャヤケットなどの衣類があり、その中にジーパンがありました。衣類にはシミがあったりして、友人はベトナム戦争で戦死した兵士のものだと言って恐れていました。そういった店でしたので、今の古着屋のような匂いがして気持ちが悪かった記憶があります。

 こういったジーパンも中学になると、綿パンの方がかっこよく思い、それほどは着ませんでした。大学生のころ、1970年代ころからみんな穿くようになりましたが、それまでは確かジーンズもミリタリー衣類、作業着扱いだったと思います。

 今でも戦後日本のハイライトは東京オリンピックと大阪万博だったと思います。ちなみに貼付けた「兼高かおる 世界の旅」の最後にパンアメリカの広告がありますが、かっこいい。

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