2011年10月9日日曜日
弘前 偕行社
建物のもつ力に改めて驚いた。とういうのは、昨日のロータリーの地区大会の懇親会で偕行社を使った。現在ある建物は、明治40年(1904)にできたもので、設計は弘前を代表する棟梁堀江佐吉である。もともとは九十九森と呼ばれた藩主の別邸で、鷹狩場のひとつであったが、幕末にはここで火薬の生産も行われていた。
明治29年に弘前に陸軍第八師団ができたが、その士官の親睦、厚生組織としてこの偕行社が作られた。第八師団の初代の師団長は、東洋一の用兵家と呼ばれた立見尚文中将で、弘前に初めて来た時は、町中の人々がその勇士をみようと集まり、けが人もでたという。こういった偕行社は戦前全国各地にあったが、戦後多くの建物はつぶされ、現存している建物は旭川市、金沢市、四国の善光寺市、豊橋市、岡山市にしか現存しない。旭川のものは現在、旭川郷土博物館に、金沢のものは石川県立歴史博物館分室に、善通寺のものは善通寺市立博物館に、豊橋のものは愛知大学短期大学の本部につかわれていたが、今は何も使っていない。また岡山のものは移転して今は食堂と研修室になっている。
こうして見ると、庭園も含めて当時の偕行社の姿を最もきれいに残しているのが弘前偕行社だけであり、室内は往時とほとんど変わっていないし、今回のような用途に使えるところも少ない。明治以来、陸軍主催のパーティーはおそらくここで、行われていたであろうし、まさにタイムスリップしたような幻覚を見る。軍服をきた人々が同じ場所で、同じような懇親会を開いた状況がまさに眼前に広がっている。こうした感覚はホテルの宴会場では絶対に味わえない雰囲気であり、歴史の重みが建物に染み付いており、それが場の空気を一期に明治時代に戻す力となっている。
私自身、ここを訪れるのは初めてであるが、本当に感動した。これは全国、県内各地から来た招待客も同様な思いであったようだ。建物はその建てられた目的があり、博物館になったのでは、その魅力は薄れるし、単に建物だけであればこれほどの感動はなかったと思う。偕行社の本来の目的、この建物でパーティーが実際に行われてこそ、建物本来も魅力が出ているくし、招待客の感動を生んだと思える。
そうはいってもよく見るとかなり損傷は激しく、早期の修復が必要である。今の状態を変えず、結婚披露宴や懇親会に使うのが最も建物の用途に沿った使いかたであろう。今回も便所の数が少なく、野外に移動トイレを設置し、食べ物も移動厨房を利用したが、こういった工夫をすれば、全く問題なく使用できる。また映画のロケ地としても活用できるし、現に「八甲田山」や「津軽百年食堂」でもこの建物が使われた。
本当にいい経験ができたことを感謝したい。
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