2011年12月12日月曜日
「今東光物語」
菊池達也著「今東光物語」は、古本屋でもなかなか手に入りにくい本で、たまにインターネットに出品されていても、高価で手が届かない。調べると、盛岡の岩手県立図書館にあることがわかったので、東北矯正歯科学会の編集委員会の合間に図書館(バス停近く)を訪れ、調べてきた。この本は、著者が青森のひとのせいか、弘前の今家のことがくわしく書かれているので、一部抜粋する。
今東光は、日本郵船勤務の今武平と医師伊東重の妹あや(綾)の子供であるが、両親が結婚したのは、武平が29歳、あやが28歳と遅かった。この理由として、「今東光物語」では今家と伊東家のおもしろい因縁を載せている。実は、武平の長兄、宗蔵は、あやの姉、三女ひさ(久)と結婚していた。ところが結婚3年後に宗蔵が風邪をこじらせ、わずか29歳の若さで急死する。今家側はこの死因に疑いを持ち、あるいは伊東家側が盛った薬がその死を早めたと噂した。これを聞いて伊東家側は激昂し、死体の解剖を申し入れ、それを認めないなら嫁を離縁すると掛け合う。両家の対立に挟まって、ひさは一子を残したまま伊東家に引き戻される。乳飲み子を引き離された18歳のひさはおそろしい決心をする。実家の蔵で自殺する。ひさの長男邦器は後に新聞記者になる。
今家と伊東家はこういった関係にあり、そのわざかまりと説得に時間がかかり、今武平とあやの結婚が遅れた。もともと今家は勤王派、伊東家は佐幕派で、そうした両家は仲が悪く、その和解の糸口になればと今宗蔵とひさは結婚した。
今宗蔵は、故斉と号し、「周易正義」などを著した儒学者で、東奥義塾の教員をしていた。評論誌「開国雑誌」の主筆や共同会の書記長などを務めた。「共同会」は明治初め、弘前の士族たちが結束連盟し、展開した自由民権運動の政治結社で、別名「義塾堂」と呼ばれた。会員メンバーには、本多庸一、菊池九郎、榊喜代身、田中耕一、伴野雄七郎、服部尚義、館山漸之進、会長はあやの長姉りょう(良)の夫、斎藤連(たまき 王へんに連)である。
珍田捨己は、今家とは親戚にあたり、あやは日頃、今東光に「東光は語学の才能がありそうだから、出来れば外交官の道に進ませたい」、「珍田おじさんを見習え、追い越せ」とはっぱをかけていた。息子の東光より、母あやの方がよほど語学の才能に恵まれており、一家の主婦になっても、W.スコットの「アイボンバー」やC.ラムの「テールス オフ シェークスピア」などを原書で読んでいたし、杜甫の七言絶句を愛誦し、平家物語を諳んじていた。後年、東光が川端康成ら一高生とつきあうようなった時、かれらが使っていた教科書が母親が読んでいたものと同じで驚いたようだ。ちなみに両親を早くに亡くした川端に、あやは実の子供のように深い愛情を注いでくれ、その恩義に報いるため後年東光の参議院選挙を手伝うことになる。
ここで今家と珍田家が親類と書かれているが、この関係もややこしい。珍田捨己の父有孚は、祖父有敬が42歳の時に野呂家から養子にきた。有敬は藩政改革事件に連座し、謹慎蟄居中で珍田家の家を守るため、この養子縁組は急遽決まった。野呂家の長男灸四郎が有孚となる(4歳)。当時、野呂家では後妻が入り、その長男を珍田家に出したことが町中で非難されたという。この後妻の娘が、今東光の祖父、今文之助の兄弟あるいは祖母也佐の兄弟に嫁いだようだ。つまり珍田捨己からすれば、父親の実家の妹の嫁ぎ先の孫が今東光になる。珍田捨己の長男千束は、一高に入学したものの、東京大学の受験に何度も失敗し、水商売の女性と遊んだりする。珍田家からすれば不出来な息子だったが、同じ境遇の今東光とは仲がよく、よく飲んでいた。
江戸、明治期の婚姻関係は非常にややこしい。当時は結婚というとほとんど見合い結婚、それも家柄を合わせるとなると対象は限られてくる。親族間の結婚も多かった。前述した珍田家でも珍田捨己の妻、いはは山中兵部の三女であるが、長男の卯太郎の子は山中千之は、珍田の長女貞子と結婚している。
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