2011年12月23日金曜日
田町、土淵川沿い墓所
弘前市にはところどころおかしな所に墓所がある。郡部ならいざしらず、市内の寺もないところにぽつんと墓所がある。
ひとつは、八幡神社に行く参道の道すがら、熊野奥照神社、市営住宅前の墓所で、当初、昔の村の墓所がそのまま残っていたのだと思っていたが、明治二年弘前絵図からここには宝蔵院と大善寺の墓所があったことがわかる、明治に入ってからの神仏分離令により、最勝院の塔頭であったこれらの寺はなくなったが、墓所だけが未だに残っている。
同様に土淵川の弘前一中裏には小さい墓所とおかしな碑が立っている。ほんの数件の墓しかなく、まわりは古いアパートに囲まれている。ここは昔の愛宕神社跡であるが、どうして神社に墓所があるかはわからない。弘前東照宮の別当の薬王院はかってはかなり大きな寺だったが、その墓所の一部なのかもしれない。
稲葉克夫著「私の落穂拾い」(北方新書)によれば、昭和47年ころまで、おそらくここであろうが、祠があり、人外という隠者が焼けた庵跡に前庭に戦死地蔵尊や石碑を作ったようである。この人外とは2.26事件に関与した対馬勝雄中尉の妻の弟、阿保源蔵のことで、ここに今次大戦で亡くなった多くの将兵の名と平和を祈る碑を立てたようだ。今でも一部、奇妙な石碑が立っている。
近くの弘前東照宮を先日行ってみたが、屋根、軒、神社本体もかなり痛んでおり、このまま放置すれば早晩、補修不可能になるかもしれない。一刻の早く債務問題の解決してほしいものだ。何しろ弘前の東照宮は全国の東照宮の中でも非常に早くできたもので、すでに400年近い歴史があり、このまま債務問題が解決しないと重要文化財の本殿もとんでもないことになる。この債務問題の元凶である結婚式場が本殿右にあるが、これが完全な廃墟となっており、解体費が相当かかりそうである。実はこの結婚式場の横に弘前市立弓道場があるが、部員以外知るひとは少ないであろう。これも老朽化しているが、HPで見ると内部はよく整備されており、使用料も生徒では1時間30円と安い。
東照宮の裏は、昔は寿町と呼ばれ、いわゆる色町であった。その中で最も大きく、格式があったのが武蔵楼で、将校以上のものが利用した。その跡地は相当広く、今では医院となっているが、奥の方には昔を偲ばせる立派な庭園がある。妓楼の本館は和洋折衷の贅を凝らした作りで、戦後壊すのが惜しく、市に保存を訴えたが、けんもほろろだったようである。北横町および寿町には20軒ほどの妓楼が並び、土手町とともに和徳町は非常ににぎわいをみせ、両町をまたぐ、坂本町から南横町の道と百石町も往来が絶えなかった。この辺りは今でも商店らしい家が多い。
ひとの記憶は、あっという間に忘れてしまう。Google earthなど200年後に見れば、実に貴重な歴史資料になろう。そういった意味では明治二年絵図も幕末期の弘前を知る一級の一次資料であろう。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
3 件のコメント:
昭和27年生まれの私が37年まで薬王院門前、古地図上で三浦鉄ノ助辺りに在住(大家は久保家、間借り)していました。東照宮、薬王院は近所の「わらはんど」の遊び場所でした。東照宮の裏には笹の生い茂った林があり、斜面になっていたので、冬には竹スキーの競争ややソリ遊びに興じていました。しかし川向こうに見える墓所は不気味であり、へたくそなセメント?作りの仏像があつて、探検に行くと、墓守らしき人に「コラーッ」と追い返されたことを思い出します。当時は今と違って天然の川岸で大水が出ると墓地の一部が水没することも有ったと思います。また、薬王院との間に弓道場が有って練習を見ることが出来、東照宮の川よりには屋根のかかった土俵があって相撲以外に流血の闘鶏や闘犬が催されて、子供の目には不思議な圏でした。30余年前私の妹が挙式した結婚式場です・・・。
薬王院、東照宮あたりは、かっては多くの寺があり、にぎやかだったようです。三浦家の2軒隣の山辺織衞は和徳稲荷など何ヶ所かの神官をしている家です。由緒ある東照宮も今やひどい有様で、何とかなってほしいものです。
コメントを投稿