2012年1月23日月曜日

六甲学院 4



 六甲学院のブログ、相変わらず見ているひとが多い。コメントも72期生、74期生といった方からくる。ふと考えると、私が32期であるから、40-42歳下の方からのコメントで、56歳マイナス42歳ということは、げげ14歳の方からのコメントである。私らの時代、おやじ以上の年輩の方に話かけるのもはばかるが、今の若者はそういった意味では抵抗は少ないのであろう。

 実際、フェースブック、ブログ、2ちゃんねるのメインユーザーは50-60歳と聞く。そういったいわば、ロートル集団に若者は問題なくアクセスでき、話し合えるのがITの効用かもしれないし、うれしいことだ。

 とりとめもなく話をしよう。うちの娘は今、西宮に住んでいて、住友系の子会社勤務している。淀屋橋の住友ビルで働いているが、父親が六甲学院と知ると、上司が「この娘のお父さんが六甲出身なんですよ」とやたらに他の住友関係のひとに紹介されるという。どうも住友系では大学閥より、隠れた閥として六甲学院閥が存在するようである。住友商事の副社長始め、役員に六甲学院の卒業生は多い。友人に聞くと、そんな高校閥はないよというが、それでも取引先のひとが六甲学院卒と聞くと、急に親しみがわくようで、同じことが、シンガポールやアメリカに勤務している友人も言っていた。

 この感覚はわからないでもない。私は東北大学卒だが、フェースブックのお友達を探す場合も、別に東北大学には全く興味はない。希少価値というか、同じような体験をしているというか、高校が同じという方が親しみがわく。

 高校1年生から3年生まで、文化祭では焼き芋屋をしていた。どこからかドラム缶を見つけてきて、ヒルケルさんに上蓋を切り取り、さらに下側面に四角の切り取りをしてもらった。得意の溶接工事である。真ん中に何本かの穴をあけ、そこに鉄棒を差し込み、金網を敷いて、その上にさらに小石を敷く。さつま芋は知人の父親から市場価格で仕入れ、マキは同様に工務店を経営している知人の父親からゲットする。下からマキをたいて小石に載った焼芋も焼くのである。確か文化祭は11月ころだったので、よく売れた。最初の年に数万円の利益があり、味をしめ3年間、焼き芋屋をした。一度、やり方がわかると出来るだけ少ない人数でした方が分配も多いため、3、4人でやっていた。

 隣のステージでは同級生のバンドが招待されたと思われる女子高生の熱い視線を浴びる横でひたすら焼芋を売った記憶がある。不思議なことに同級生の中でフォークやロックをしていた連中は、今でもおやじバンドを組んで活躍している。文化祭も終わり、さあ片付けようとすると、熱のためかドラム缶の下のアスファルトが焼けてドロドロになっている。足でこすって、何とかしようとしている、ちょうどその時にシュワイツエル校長が現れ、「ヒロセくん、君は何をしているのかね」と、この校長はすべての生徒名を覚えてる、それから延々と30分間怒られ、何とか釈放された。この校長はドイツ人らしく厳格で、そういったアスファルト工事も自分でするのが好きで、それもきれいに仕上がっていないと気がすまない。後日、きれいになっているのを見ると、校長が後で修復したのかもしれない。

 今はどうなっているのかしらないが、昔はヒルケルともうひとり外国人の大工さんがいた。授業には一切タッチせず、ひとすらこの二人で机から家具、はてはサッカーのゴールまで作っていた。当時の重くて、掃除の時に困った生徒用の机はみんな彼らが作った。作業所には木の切削器具やら溶接器具やらいろんなものがあり、学校の備品はほとんどここで作っていた記憶がある。ヒルケルさんは、体重優に100kg以上ある巨体だが、やさしいひとで、ドイツ人なのか、サッカー好きで、サッカー部の練習にはよく見学に来てくれた。あまり生徒と接触する機会もなかったのか、サッカー部の部員とはとくに親しかった。それでドラム缶の改造も気楽にしてくれた。ヒルケルさんは当時で日本生活が30年を越えていたが、日本語が全然ダメで、ある日ヒルケルさんに「ドイツ語しゃべってくださいよ」と尋ねたところ、「ドイツ語、ワスレマシタ」と変な発音で答えた記憶がある。本当にドイツ語忘れたのかもしれない。

 確か、ヒルケルさんが亡くなる前か、ヒルケル少年サッカークラブができ、その後六甲高校OBによる社会人クラブ、ヒルケルフットボールクラブとして、その名は残っている。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 スクールデスクを検索するうちヒルケル先生の机を思い出し再検索したところこのブログに行き当たりました。これが先輩に当たる方のもであるとわかりましたのでご挨拶させていただきます。
 私は42期生です先日送付された伯友№61の総会の集合写真では写真中央で子供と一緒に写っております。幼少期を弘前で過ごしたためかなりのんびり育ちましたので、六甲の在学中はかなり成績が悪く、それを引きずったためか未だに人生は低空飛行です。
 今回先生のブログに触れ、弘前のことを久しぶりに思い出しましたので、私が恩師と思っている先生を紹介いたします。お名前は中村卓三先生です。弘大附中で音楽の教鞭をとっておられましたが、今は引退され私の知る最後の情報では(15年ほど前のものですが)個人でバイオリン教室を開いておられました。中村先生は音楽の先生というよりは郷土の怪談の語り部のようで、授業の半分以上を使って私たちにご自身で集めた怪談を披露されておられました。いつか郷土の怪談として出版されるものと思っておりましたが、ご存命であれば80歳近いご高齢の方ですので、そういう活動もされて居られないかもしれません。私にとっては六甲の本田先生と双璧をなす音楽室の偉人です。
 先日友人と久しぶりに新築校舎を見てまいりました。外観はほぼ完成し、立派な校舎に寄付しただけのことはあるなと二人で顔を見合わせました。
 初めての投稿で長文を書き大変失礼いたしました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。中村先生については知りませんが、弘前バロックアンサブルという弦楽アンサンブルの指揮者、作曲家で活躍中のようです。弘前は田舎のくせに、交響楽団、オベラ、バレイなど20以上のサークルがあって活動しています。
本田先生、なつかしいですね。42期の時はなかったかもしれませんが、わたしの時は、イントロ名曲当て?という試験があり、名曲のさわりを聞き、曲名を答えるものでした。未だに、ほとんど覚えています。選曲は本田先生らしく、マイナーな曲もあり、音楽好きのひとからも、こんな曲知っていのかと驚かれます。

匿名 さんのコメント...

 不躾なコメントに御返信いただきありがとうございました。42期でも本田先生のイントロテストは有り、100曲覚えよと言う課題に皆四苦八苦し、クラシック大好きなH君だけは嬉々としてテストに臨んでいたのを思い出しました。
 2010年に妻子を連れ弘前を再訪問いたしましたが、私が去った1980年当時はRABで吉幾三の交通安全の歌が流れ、デパート3つ、スーパーマーケット2つと土手町に行けば何でも揃い、無ければイトーヨーカドーに行けば何とかなると言う時代で、駅前も活気があり、当時の繁華街と今とを比べて残っているものがあまりにも少なくて驚かされました。30年たっても変わらぬものは青森県一番の都市として発信していく心意気と不況でもめげない元気だと懐かしいねぷたまつりをみて思いました。