2012年1月18日水曜日

東海定蔵あるいは栄蔵





 ここのところ新年会などが続き、忙しい毎日を過ごしているが、こういった時に限ってなぜか、さらに時間のかかることをし始める。明治二年弘前絵図については、人名の検索依頼が多いため、それでは載っている屋敷主すべてのデーターベースを作ろうと正月に思いついた。診療の合間を見ては、ファイルメーカーで作ったデータベースに人名を打ち込んでいる。何とか町名ごとに1100人ほどようやく打ち込んだが、後半分で、まだまだである。今月中には何とか完成したい。

 幕末当時の武士の名は、確かに勘兵衞、右衞門など武士ぽいものもあるが、一番多いのは、太郎、二郎、三郎などで、また弥吉、庄助など庶民的な名前も意外に多い。現在に比べて名前の種類は比較的少なく、データベースが完成すれば、幕末時の武士の名前の分布も調べられるであろう。

 田茂木町のはずれに東海らしき字が見られる。ちょうど紙の継ぎ目で文字が分断されている。ひとりひとり文字を打ち込んでいると、作者の書き癖のようなものがわかってきて、このほとんど解読不可能な文字も姓は東海のように思える。そこではっきりしている代官町の東海吉兵衞(2番目)と比べると、右半分が一致する、よってこの文字は東海と判断できる。さらに隣の三上乙吉、松嶋源十郎の隣、つまり3軒隣の三浦房蔵の蔵の字の左半分が東海の名前の最後の字と一致する。東海○蔵となる。東海家には長男健蔵、二男定蔵、三男は勇蔵であり、この中で可能性があるのが、定蔵となる。そこで定の字を絵図上で探すと、太田定吉という名があり、この中の定の左半分をみると東海○蔵の○に一致しそうである。かなり強引な解釈であるが、データーベースが完成すれば、絵図上の東、海、定、蔵のすべての字を検索し、その左半分と比較することで、この不明な文字もはっきりと解読できそうである。

 今の所、この文字は東海定蔵、すなわち後の赤石定蔵と読めそうだが、なぜ長男の健蔵の名前でなく、二男の定蔵の名が屋敷主となっていたのかわからないし、さらに明治二年当時、東海定蔵は2歳であり、いくらなんでも、2歳の子供を屋敷主はしないであろう。むしろ父親の東海栄蔵昌幸が屋敷主と考えた方が理にかない、東海○蔵の○は栄の字の半分なのかもしれない。これも他の栄のつく名前を検索して、定か栄かを判断したいところである。


 こんな推理小説のような謎解きも楽しめるのは絵図鑑賞の醍醐味であろう。

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