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一枚の写真がある。3人の若い武士の写真である。それぞれが紋付、帯刀という正式な衣装であるが、髪は髷を結っておらず、明治になってから、それもかなり早い時期のものである。
種を明かせば、平成13年1月29日付けの東奥日報に掲載された写真で、「130年の歳月越え写真は残った 若き志士りりしく 東奥義塾創設者・菊池九郎ら」のキャプションがあり、説明によれば菊池九郎、間宮斉、武藤雄五郎の3人が慶應義塾から洋学研修のため静岡に留学の際の撮ったとされている。明治3年頃のものであろう。写真右が間宮斉、真ん中が菊池九郎、左が武藤雄五郎である。もう少し後の菊池九郎の写真は何かで見た記憶があるが、おそらくこの写真が一番古いものであろう。
明治2年8月6日に菊池九郎、間宮求馬(済、あるいは斉)、武藤雄五郎は藩命で、福澤諭吉の慶應義塾に入塾する。幕末から明治4年にかけて弘前藩は洋学を研修させるために27名に優秀な若者を慶應義塾に入学させている。最初は文久1年11月(1861年)に木村滝弥、その後文久2年5月に工藤浅次郎、元治2年1月(1864年)に吉崎豊作、慶應元年5月には神辰太郎、佐藤弥六、白戸雄司、そして明治2年8月の入塾者に菊池九郎、間宮求馬、武藤雄五郎の3人の名がある。同級生である。明治3年に当時の洋学では日本最高峰である静岡学問所に行くのは間宮と武藤、そして藤田潜、成田修吾などである。また菊池、小山内貢、斉藤連(王へん)は鹿児島の英学校に留学する。その再留学の際に記念として撮影したのがこの写真のようである。明治5年8月に静岡学問所は閉鎖され、弘前藩自体も解体されたので、その後の彼らの人生は不明である。
撮影場所は、下の敷いているカーペットの柄から、明治2年、東京浅草で「九一堂万寿」という写真館を開業していた内田久一のスタディオであろう。ただ他の写真には後方に柵のような飾りがあるが、菊池、間宮の写真にはそれがない。他のスタディオの可能性もある、もう少し検討したい。
明治2年の慶應義塾入社帳には、菊池九郎の年齢は19歳と記載しているが、菊池九郎は1847年10月26日生まれの21歳で少し年齢を若くしている。弘前藩主、津軽承昭に随行して明治2年6月15日に弘前を出発した。
菊池九郎については、このブロクに何度が取り上げた。間宮求馬(もとめ)は、先祖はもともと近江国、間宮の出身で、京極氏に仕えていたが、二代藩主信牧に間宮弥三郎が300石で仕えた。その後、弥三郎の孫、求馬勝守は弘前藩の用人を務めた。さらにその子、間宮蔵人恵隆は飢餓に苦しむ農民に同情し、藩政を批判し、それにより蟄居されるという侍らしい硬骨漢であった。寛政年間には、間宮求馬繁勝は蝦夷地出兵には物頭として参加し、また間宮求馬勝正も文政年間に藩の重臣を務めた。弘前藩の名家である。残念ながら間宮求馬(済)は明治9年ころ25歳の若さで腸チフスで亡くなったしまうが、もう少し長生きしたら、大きな活躍をしたのであろう。
もう一人の武藤雄五郎については、先の東奥日報の記事では、御典医、用人を務めた武藤丹宮(1748年没)の十代後の子孫に当たるとしているが、手持ち資料には武藤の名はない。明治2年絵図にも載っていない。写真の羽織の紋は六文銭であることから、真田家あるいは仙台の片倉家に関連した武藤家である可能性はある。ただある程度の重臣であれば、どこかに名があるはずで、全くないのは改姓した可能性もある。青山学院教授で、日本基督教団第4代議長である弘前出身の武藤健(1893-1974)はこの武藤雄五郎の息子あるいは親類の可能性は高い。
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