2012年6月30日土曜日

比良野貞固と稲葉三橋



 比良野という名は、森鴎外の「渋江抽斎」で比較的よく登場する。というのは、抽斎の二番目の妻、威能は、比良野文蔵の娘であり、また四度目の妻、五百の仮親で、渋江抽斎とは親戚関係になるからである。また文蔵の息子、比良野貞固、その息子房之助とも藩の同僚、あるいは稽古館の生徒として親しい。比良野家は在府の侍で、文蔵は留守居役、貞固は留守居役物頭を務める名家であり、比良野貞固は明治元年に江戸藩邸引き払いに伴い、弘前に帰り、北新寺町に居住したとなっている。


 すぐに明治二年絵図で居住地が判明すると考えたが、北新寺町にはその名がなく、藩士のデータベースでも見つけられなかった。たまたま松木明先生の「渋江抽斎人名誌」を見ていると、比良野家の系譜が出ていた。初代比良野勘助は近江の出身で延宝5年に勘定之者、元禄元年に勘定小頭、4年に御蔵奉行などを務めている。二代目は比良野小三次、三代目は助三郎、四代目は比良野小三次、五代目は比良野房之助(助三郎、助太郎貞彦に改名)となり、六代目が比良野文蔵となる。比良野文蔵は、助太郎の婿養子で、大屋但馬守御家中、波多野平内四男で、江戸足軽頭などを務めて嘉永3年に亡くなる。息子の比良野貞固は、正式には比良野助太郎貞固で、これを見ると「助」あるいは「貞」の字を代々名前につけたようである。そして貞固には息子がいなかったため、弘前藩定府物頭稲葉丹下の二男、稲葉房之助を婿養子にむかえ、比良野房之助となる。維新後は実父稲葉丹下と一緒に東京本所緑町で骨董店を開いた。


 さらに稲葉丹下の系譜も「渋江抽斎人名誌」に出ているが、初代が伊助、二代目が三橋、三代目が弥三郎、四代目が彦次郎、五代目が仙之助(新蔵)、五代目の斧吉が丹下と改名する。


 そこで改めて明治二年弘前絵図とデータベースで探すと、塩分町に稲葉三橋の名が見られる。おそらく稲葉丹下か、その息子の名であろう。さらに絵図は口頭によって記載されたと推測されるので、「比良野」ではなく「平野」で検索すると、平野助十郎の名が田茂木町に見られる。先に述べたように比良野家では代々「助」の字を使うことから、この平野助十郎は比良野助十郎に違いない。十郎とは、太郎が一番目の息子、次郎は二番目ということからすると、十番目の息子ということになるが、いくら子供が多いからといって十番目の息子ではない。十郎太郎という名もあり、十という字は縁起がよく、太郎のかわりに十郎となる場合がある。付け加えれば与一郎は11番目ということになる。となると、平野助十郎は比良野助太郎貞固のことかと思われる。ちなみに息子房之助が弘前に帰ってくるのは明治5年であり、明治2年当時はまだ江戸にいた。


 いずれにしても明治元年に江戸から北新寺町に居住した比良野家は早い時期に田茂木町に移ったに違いない。明治9年には比良野助太郎貞固は65歳で亡くなるが、養子の房之助は明治5年には東京に再び戻っているので、おそらく比良野家はこれで弘前からいなくなった。


 松木先生のような本があると、こうしたことを調べるのに実に役立つ。

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