2012年6月28日木曜日

続つがるの夜明け


 「続 つがるの夜明け よみもの津軽藩史」をようやく読了した。上巻、中巻、下巻之壱、下巻之弐の4冊、2000ぺージ以上ある分量で、さすがに早読みの私でも2週間かかった。小説風に書いているため、内容は読みやすいものであったが、何しろ量が多く、さすがに疲れた。

 これまで明治以降を中心に調べていたので、それ以前の歴史については私には関係ないと思っていたが、やはり弘前の歴史を調べるには弘前藩についての基礎的な知識が必要と感じた。そういった手合いにはこの本は分量があるが、いい本であった。

 この本のいい点は、弘前藩の概略がわかるだけでなく、個々の弘前藩士の略歴、系図がくわしく説明されていて、参考になる。例えば、珍田捨己の生家については、明治二年弘前絵図では、珍田姓が一軒しかなかったので、森町の珍田直太郎方を生家と推定し、直太郎を珍田捨己の父あるいは祖父ではないかと本でも記述した。「つがるの夜明け」には珍田捨己の祖父、珍田祐之助有敬(ゆうのすありたか)について、寛政3年(1791)、吉太郎有常(俵子70俵四人扶持、勘定奉行)の長男に生まれ、初名を直太郎。のちに、金太夫、祐右衞門、祐之助、のちに祐之丞と改めた としている。すなわち明治二年弘前絵図の珍田直太郎とは珍田有敬のことで、ここが捨己の生家であることがはっきりした。珍田有敬が亡くなったのは慶應元年(1865)で、74歳であった。明治二年にはすでに亡くなっていたが、戸主名としてそのまま残したのであろう。現在地は、道が一部、変っているので、断定しにくいが、「お仏壇の一心堂」あたりが珍田家となる。

 また洋学研究の一環として多くの藩士を上京させ勉強させているが、その一人、海軍技術を導入するために、無足釜萢庄左衞門景勝(馬廻組、是太郎景春弟)は安政二年621日に江戸の勝塾に入門し、勝海舟が長崎伝習生督学を命じられ、長崎に赴任した折、勝の家来として長崎にて勉学し、安政6年に帰藩して、新規召し出し、師範家並となったと記載されている。釜萢という名字は珍しいが、明治二年弘前絵図では釜萢庄之助、多門、是太郎、宇一の名が見られる。馬廻是太郎景春の住まいは小人町、釜萢庄之助は庄左衞門景勝のことと思われ、当時は茶畑新割町に住んでいた。

 武藤雄五郎については、2000ページを越える本の中で、唯一記載されているのは、延享の大火のところで、焼け出された家として元寺町の用人武藤丹宮の名があるのみである。用人といえば、家老に次ぐ高い地位の名家であり、それ以降全く武藤の名が一切でないのは、何らかの理由で、改名したか、断家したか、罷免され、帰農したかもしれない。

 家系図について書かれた本で、あなたの先祖はきっと著名な人物に繋がる。昔は、ある程度、権力、金がない家では、一家断絶して、子孫は残らないので、今まで子孫が残っているのは奇跡的であるとしている。津軽の歴史を見ると、常習的に飢饉、地震、水害、大火が起こっており、なかでも飢饉はほぼ数年ごと、ひどい場合は10万人規模の餓死者が出る。こういった状況では、確かに一家が残って行くためには、まず食えること、そして養子縁組をしないとまず絶家する。武士の家でも、藩内の闘争に巻き込まれると家の断絶となるため、初期の家臣の中にもその子孫が残らない場合も多い。下層階級から淘汰されていく運命となる。私の家の場合は徳島県の田舎で百姓をしていたが、家系図よりほぼ応永9年、1403年ころからは確実に遡れる。庄屋をやっていたという名家でもないが、津軽と違い、徳島では比較的飢饉などの災害は少なく、養子をうまくとっていけば、家は続いた。ところが、津軽のような気候の厳しいところでは、私の先祖のような百姓は、とうに飢餓による亡くなったであろう。

0 件のコメント: