最初見た映画。小学校1年生くらいであったろうか、忙しい父が、今日は映画を見ようかと言って、兄と一緒に、尼崎の繁華街、中央商店街にある映画館に行った。
映画館の名前は忘れてしまったが、尼崎OS劇場のあった繁華街の通りの手前、確か東洋劇場?か、主として洋画を流していた映画館で、その後もここで「シンドバットの冒険」三部作などを見た記憶はある。題名は「思い出のサンフランシスコ」であった。小学校一年によくそんな映画に連れていったなあと思うが、父が見たかった映画だったのであろう。当時、はやっていたトニー・ベネットの名曲「思い出のサンフランシスコ」にちなんだ映画で、今調べるとトニー・ベネット自身や、当時人気のあったドリスー・デイも出ている。まあB級の映画で、いまでは誰も知らない。
映画の筋は完全に忘れたが、曲とどういうわけか、小雨が降るサンフランシスコの情景はよく覚えている。当時の映画館は、いつも一杯で、座席のみならず、通路に人が座り、後ろの方では子供が父親に肩車されて見ていた。
その後は、もっぱら尼崎東宝に行き、怪獣ものと若大将ものの二本立てをよく見た。「キングコング対ゴジラ」で、これは母と行ったが、その後の「モスラ対ゴジラ」からは友人や兄と見に行った。子供たちの目当ては当然、怪獣ものであったが、加山雄三の若大将ものも、何だか日本とは別世界で、それなりに面白かったし、何より酒井和歌子さんがきれいだった。それでもあくまで、二本立ての脇であり、怪獣ものが始まると、子供たちは歓声をあげてはしゃぎまわった。
小学校5年生になると中学受験のため、あまり映画を見に行くこともなくなったが、ある時、これも父が梅田に大きな映画館ができたぞ、一緒に行こうと兄と一緒にできたばかりの梅田OS劇場に行った記憶がある。何でも日本で始めて70mm映画上映館というマンモス映画館で、入ると、案内が席まで案内してくれる。確か題名は「これがシネラマだ」という映画で、ものすごい横に広いスクリーン一杯に映像が流れる。内容はシネラマの紹介だけのつまらないものであったが、それでも最初見た時はショックを受けた。今の3D映画どころでない。音響もすごく、その後、映画館もどんどん小さくなって梅田OS劇場のような重厚な映画館はない。
中学になると、受験戦争にも開放され、月に一回ほどこづかいを貯めて、神戸三宮のビック映劇に行った。ここは名画座というもの、2本立てで、名作を安価で見られた。「イージライダー」、「イエローサブマリン」、「いちご白書」、「ガラスの部屋」などをここで見た記憶がある。すでにテレビが普及しており、映画館はがらがら状態になっていたが、それでも熱心な映画ファンがここには集っていた。
本格的に映画を見だしたのが、大学に入ってからで、日曜日は必ず仙台の仙台名画座に行った。多い年では年間200本近く見たであろう。当時は、テレビでの映画放送はあったが(ちなみに最初のテレビでの映画放送は「裸足の伯爵婦人」で、そのテーマ曲はいまでもよく覚えている)、貸しビデオ屋さんはなかった。朝10時ころに起き、昼食を食いに繁華街に出、そのまま映画館に入り、2本映画をみて、街をぶらぶらして夕食を食べて、帰宅。こういった日曜日の使い方であった。本来なら彼女とデートといきたいところだが、そんな彼女もおらず、大学5年生まで、こんな生活であった。
最近は、映画をダウンロードして、旅行中の電車の中で、Ipadなどで見ているが、仁義な戦いの全シリーズを見たのが、今年一番の収穫であった。
3 件のコメント:
三宮のビッグ映画館には私も大学生時代によくいきましたが、六甲生の頃は学校から映画館出入りは禁止されてました。先生の六甲の頃はokだったのですかね。
当時も映画を見るのは、親と一緒に、確かこずかいも500円と決められていました。それでも高校生くらいになると、隠れて映画館に行っていました。授業中に平凡パンチを回し読みしたり、金を出し合ってロックのレコードを買ったり、自主映画なども作っていました。ちょうど学園闘争の真っ最中で、社会的にも若者の反抗といったムードがありました。一部の高校では、学園闘争もあり、革マル派などもいたようです。六甲でも、長髪問題がけっこう盛り上がりました。
いやー、ずいぶん感じが違うものですね、小生の頃は隠れて映画なんぞ退学覚悟もの、学校でも反抗するような人は皆無だったですね。それでも、小生は学校帰りに友人宅で一緒にちょっぴりウイスキーなどをのみましたが。
ところで、小生も「ビッグ映画館」と書きましたが、正確には「ビック」だそうです
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