2013年1月11日金曜日

六甲学院・修学旅行


 六甲学院のブログは相変わらず、見ている方が多い。それだけ懐かしいということか。私など青森県という日本の僻地に住んでいるため、周りに六甲学院卒業という人は全くいない環境で、それだけで懐かしい。そういったこともあり、娘二人は是非、関西、それも阪神間に住まわせたいと思い、また娘も関西になじみがあることから、現在、ふたりとも西宮に住んでいる。うれしいことだ。

 修学旅行の話をしよう。私の学年、32期は、それまで九州方面が修学旅行先であったが、初めて東北方面に変えた年であった。古い話で忘れたが、確か、新幹線と国鉄で、最初に仙台に行った記憶がある。東北大学を受験希望する学生は、その時に大学キャンパスに見学に行ったと思う。私は行っていない。そのためか、32期から東北大学に行ったのが4名くらいいて、例年になく多かった。松島の旅館に泊まった記憶がある。海辺の新しい旅館で、何でも前日に神戸女学院が泊まったという噂があり、この布団で神戸女学院の学生が泊まったのかと、みんな興奮していた。不良グループの我々は、各自、ウィスキーなどの酒を持ち込んでいたが、初日ということもあり、この日は控えた。夜になると現代国語の平井先生が見回りに来たが、特に異常もなく、セーフ。その後、スナックに行こうと数人でホテルを抜け出して、松島の街に出て薄汚いスナックでコークハイを飲んだ記憶がある。

 その後、岩手の浄土ヶ浜、盛岡での椀子蕎麦、八幡平と北上した。八幡平では山上の池で人気者の上田くんを、みんなで煽てて、11月という寒い最中に泳がせ、観光客からも拍手喝采された。ここでは制服が似ていることから、学習院の修学旅行ということにした。毎日、夜になると酒盛りで、朝起きると二日酔い、バスの一番後部で熟睡という旅行であった。酒臭かったであろうが、先生も見逃してくれ、とくに怒られもしなかった。その後、青森の十和田湖、奥入瀬などを見て、最終地の弘前に入った。

 弘前で、友人と駅前の喫茶店に入り、コーヒーを注文したところ、何と砂糖壜に塩が入っていた。私は記憶していないが、友人によれば、ここで私が「弘前というところはコーヒーには砂糖の代わりに塩を使うんだ」と言ったという。もちろんそんなことはない。駅から弘前城に行く道、中央通というが、そこに「珍萬」という中華料理屋があり、大笑いしたことや、「ソニープラザ」があり、当時、三宮「さんちか」にあり神戸っ子には親しまれていたが、その同じ店がこんな田舎にもあると驚いた記憶がある。夜、弘前駅に到着し、確か、お城近くの小堀旅館に泊まった記憶がある。弘前駅から夜行で大阪に戻ったが、それ以降、修学旅行先に東北が選ばれたことはないのであろう。まさか、修学旅行先に永住しようとは当時は全く思わなかったが、不思議な縁である。こちらでは会う人ごとに高校の修学旅行に弘前に来たというと驚かれる。

 話が変わるが、六甲学院にも学園闘争の影響があったことはあまり知られていない。中学2年生、昭和44年(1969)ころの話である。当時の高校2年生(27期?)が頭髪問題で騒いだ。兵庫県でもほとんどの高校では長髪が許されていたが、六甲高校のみは丸刈りであった。高校生となるとおしゃれ心もあり、坊主頭はさすがにかっこわるく、1cmくらい伸ばしたりもしていたが、これをシュワイツエル校長が校門の前でチェックして、検閲に引っかかると、帰させられた。当時、東大紛争など学園闘争が活発で、高校生にもその影響があり、灘高校や神戸高校など名門高校にもセクトができて学園闘争が行われていた。作家の中島らもさんも灘高校でがんばっていたようだ。ちなみの私の実家の歯科医院は中島らもさんのお父さんから借りていた。六甲学院にもそういった動き、気配は山の上にも伝わり、なんぼなんでも今時坊主頭はないだろうと騒いだのが、この頃であった。私は中学2年生くらいだったので、詳細は知らないが、集会などが行われ、教師、校長とも何度か話し合いがあったようだ。面白いのは、生徒間にも坊主頭賛成派もいて、訓育生のメンバーは最後まで坊主頭を貫き通した。また長髪は許されるようになったが、耳が隠れるような長髪まではダメと生徒が自主的に制限を作った。これが私たちが高校生になった時に、効いてきて、ちょっと散髪に行き忘れると先生から注意された。古いOBからは昔はもっと厳しかったと言われるが、この当時から徐々に六甲も世俗化していったのだろう。それもまたいいではないか。


3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

先生が「青森は日本の僻地」と表現されたのは、大きな意味はないと存じますが、かつてサントリーの佐治社長が、東北を「蝦夷」と表現したことが東北蔑視とみられ、ひんしゅくをかったことがありました。
一般的には、僻地とは「文化的に恵まれない地域」と理解される方が多いので、東北人はそれでなくても関東や関西圏に引け目を感じているので、出来れば表現して頂きたくないのです。
これは、東北で生まれ、育った人間でなければわかりません。
ブログを楽しみにするからこそ、敢て申し上げますが、反論はございますか?

広瀬寿秀 さんのコメント...

僻地という表現は間違っていました。ただ中央から離れた、周縁という感覚は大事だし、誇ってもいいと思います。笹森儀助の今日的な評価は彼の辺境からみた中央への視点であり、同様に山田兄弟、陸羯南の思想、行動は、中央への反発、弱者への共感から来ています。

匿名 さんのコメント...

僻地、結構じゃないですか。私なんぞ今東京周辺に住んでますが、文化果る僻地と思っています

坊主あたま一度も疑問に感じたことありませんでしたし、長髪にしたいなどと思ったこともありませんでした。髪の毛なんぞどうでもいいというか全く関心ありませんでした。おかしなものですね。

修学旅行は九州でしたが、酒を飲むなど考えられもしませんで、自由時間に友人と喫茶店で餡蜜食ったのが嬉しかった思い出です

全く反抗の季節とは縁遠い時代で、安保闘争の時友人と訳も分からず「安保反対」のビラまき企んで武宮校長に呼びつけられてじんわりと諭されたことことくらいです