現在、「新明治二年弘前絵図」については、出版社も決まり、原稿を渡し、校正を待っているところである。ただ待っているうちにも、新たな情報が入り、きりがない。おもしろいエピソードがあれば、是非本の中にもいれたいのだが、それをするときりがないため、最近は歴史関係の本は読まないようにしている。それでも古本屋にいけば、つい本を買ってしまうので、そうはうまくいかない。
「津軽の絵師」(弘前市立博物館 1982)は、弘前藩の絵師、画家を総括的に扱った本である。今日的な観点からみると、青森の画家もそれなりにはうまいのだが、新たな評価を受けるような画家は少ない。京都、江戸から離れた場所では、もっと個性的な絵師がいてもよさそうだが、江戸という時代を考えると、模倣、類似的な表現形態で、あまり面白みはない。唯一、幕末期から明治初期に活躍した画人、国学者、津軽の平賀源内、平尾魯仙の絵は面白い。風景画から人物、仏画と対象は幅広いが、どれもユニークであり、一生郷里の弘前を離れることがなかったせいか、中央では全く無名である。画家としてもう少し評価されてもよい人物である。
この本の中に、棟方月海のことが出ている。棟方月海(1836-1904,5)は、通称熊太郎、後に角馬と称し、禄200石の上級武士で、その名は蔵主町に見える。おもしろいエピソードがある。版画家の棟方志功家には、昔から棟方月海の絵があった。棟方志功はこの絵をみて自分の先祖は、偉い侍で、有名な画家だったと思い込み、将来は絵描きになろうとした。棟方志功の父親は鍛冶屋で棟方月海とは全く関係はなく、ただ名前が同じであるだけである。完全に棟方志功の思い違いであるが、絵描きになってからも棟方月海を誇りに思い、画業に精を出したという。棟方角馬という人は、戊辰、函館戦争では、仙台の九条総督への使者になったり、軍監として兵を率いたり、維新後も会議局の副長などをしたが、その後は「悠々自適楽酒、明治37,8年ノ頃70余ニシテ終ル」と、書画に親しむ晩年を送ったようだ。
棟方角馬を「青森県人名大辞典」(東奥日報 1969)を調べていると、毛内靖胤(1880-1936)のことが出ている。陸軍航空の草創期に活躍した軍人で、弘前中学校卒業後、陸軍士官学校、大学校、所沢飛行学校、明野飛行学校校長、陸軍航空本部総務部長を努め、最終的には陸軍中将で退官した。毛内の弟の毛内效(1884-1936)は、弘前中学校卒業後、海軍士官学校、大学校に進み、その後は砕氷艦大泊、特務艦武蔵、巡洋艦天龍、那珂、戦艦陸奥の艦長を歴任し、航海術の権威と称せられた。海軍少将に昇進し、昭和7年に退官した。兄弟で陸軍と海軍の将官になるのは秋山兄弟と同じく、珍しい。
この毛内靖胤、效の父親の名前は、毛内嘉胤という。調べると、弘前藩で用人などを努めた毛内家に繋がる。明治二年絵図では、元寺町に毛内有人の名がある。正式には毛内有人茂胤、この長男が嘉胤となるから、毛内兄弟は名家毛内家の直系となる。さらに言えば、毛内有人の義母、毛内滝子は、歌人として名高く、二男毛内監物良胤は脱藩して、新撰組に加わった変わり種で、後に新撰組の内紛により京都七条油小路で惨殺される。義母の教育により、新撰組隊士の中では珍しく諸芸に優れていた。祖父の毛内有右衛門茂幹も、谷文晁などと親交があり、画家毛内雲林として有名で、毛内家は諸芸の才があるひとが多かった。
棟方、毛内(もうない)という姓は、青森ではそれほど珍しくないが、全国的には少ない姓であろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿