「鉞子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯」(内田義雄著、講談社)を読んだ。一日であっとという間に読めた。著者の杉本(稲垣)鉞子への深い愛情によるものか。読みやすい文章で、士族の娘のユニークな一生をうまくまとめている。
杉本鉞子については、以前、長岡在住の杉本鉞子研究家の青柳さんから聞いていたので、「武士の娘」はすでに読んでいたが、この時はあまり感動しなかった。こういった評伝を読むと、よく理解でき、「武士の娘」を発行するまでの動機がよくわかった。「武士の娘」の優れた解説本ともいえよう。
杉本鉞子の旧姓は、稲垣といい、越後長岡藩の家老稲垣平助の六女として生まれた。名門の家系である。幕末期、薩長と戦うか、恭順するかで藩論がわかれた時、恭順派であったため、長岡藩からは卑怯者とののしられたが、この本を読むと、主戦派のリーダーの河合継之助の強引な政策が藩を窮地に陥らせたとも言えよう、司馬遼太郎が描く「峠」とは真っ向から異なる歴史観である。長岡藩が明治維新後も会津藩のように領地召し上げとならなかったのは、この本では鉞子の父、板垣平助の功も大きいことを始めて知った。裏切り者、卑怯者を言われ、主君や家臣からも嫌われながらの、後半生は厳しいものだったろう。実際の歴史は案外、こういったことが真実なのかもしれない。こういった本の出版で少しでも汚名はそそがれたのかもしれない。
123ページに横浜バイブルスクールの「ミセス イナガキ」という人物が登場し、著者はこのイナガキを鉞子ではないとしているが、誰とは同定していない。このイナガキとは稲垣寿恵子(1860-1931)のことで、横浜海岸女学校などの講師をしており、文中では20数名の盲目の女性たちを世話する女性となっているが、これは二宮ワカらと作った横浜訓盲院のことである。明治22年のことである。
杉本鉞子はアメリカ、オハイオ州シンシナティーで過ごした。このブログで何度も紹介した、須藤かくとは何らかの接点があるかと思い、この本を読んだが、両者にはどうやら接点はなさそうである。杉本鉞子は1873年生まれ、須藤かくは1861年生まれで12歳違う。須藤かくが横浜共立女学校を出てバイブルスクールに入り、渡米したのは1891年。そしてシンシナティーの女子医大に入学したのは、1893年で、卒業は1896年で、医者となり横浜に戻ったのが1898年である。一方、杉本鉞子が渡米したのは1898年で、須藤かくとは行き違いとなり、両者は同じシンシナティーにいたが、接点はない。ただ杉本鉞子の夫、松雄がシンシナティーで日本の工芸品、雑貨の店、「ニッポン」を開業したのは、1896年であるので、同じ日本人として杉本松雄と須藤かくは面識があったかもしれない。
いずれにしてもシンシナティーでは、異国、日本から初めてきた熱心なキリスト教徒、須藤かくと阿部はなは、好奇の対象であり、新聞でも何度も取り上げられ、その優雅な立ち振る舞い、心根はシンシンティーの人々から大きな尊敬と歓迎を受けた。有名人であった。その後に来た、杉本鉞子もまたキリスト教徒で、須藤かく、阿部はなと同様な姿に見いだし、市民は改めて日本女性のイメージを確立していったのであろう。杉本鉞子の終生の友、母親代わりのフローレンス・ウィルソンが両親と一緒にシンシナティーに来たのは1881年で、当然、新聞などで須藤かく、阿部はなのことは知っていたのであろう。ただウィルソン家はメソジスト教会に属し、須藤かくが主として活躍した長老教会とは宗派は違うため、教会での直接の接触はなかったのかもしれない。それでも強い日本女性への興味があったのであろう。
須藤かくと恩師ケルシー女医の関係と杉本鉞子とフローレンスの関係は本当によく似ている。ケルシー女史は須藤かく、阿部はなのことをcompanion(仲間)としていたが、こういった人種を越えた深い結びつき、愛は美しい。
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