テッド青木は、カナダのアルバータ大学(エドモンド)の教育学部教授で、多様化文化の研究ではカナダでは最も有名な学者です。弟のハリー青木は、ジャスミュジシャン、作曲家あるいは、アメリカ原住民や海外の民族音楽の理解者としてカナダでは有名な音楽家です。ハリーは2013.1に90歳で亡くなりましたが、兄弟とも太平洋戦争中は強制収容所に入れられ、その後もカナダにおけるひどい人種差別に苦しめられ、カナダの日系人として随分苦労したようです(動画は90歳の時のハリーのハーモニカ演奏)。
父親の青木定義は、1912
年に東京豊島師範学校を卒業後、浅草小島小学校に勤務し、1918年にカナダ、カンバーランド五号地コモックス区公民学校の校長として16年間、勤続しました。母親の大谷津まさ子(まさ)は弘前出身で、東京女子師範学校(現お茶の水大学)を卒業後、青木と結婚し、すぐにカナダに渡航しました。
二人は1934年にはバンクーバに移り、明和学園という日本語学校を経営しましたが、太平洋戦争当時は、敵国人として強制収容所に収容されました。定義は、おしまれつつ1975年5月に亡くなります。
カナダ、アメリカへの明治33年から昭和3年までの青森県からの移住者、留学者は「青森縣総覧」に記載されています。同じ頃、バンクーンバー島、カンバーランドに移住した工藤まきについては、記載がありますが、大谷津まさ子の名はありません。おそらく結婚後に移住したためと思われます。
大谷津は珍しい名前で、おそらく士族の出身であるなら、世子津軽承祐の突然死の責任をとって、切腹した大谷津岩五郎(茂正)のことが思い出されます。大谷津岩五郎は1827 年生まれで、21歳の時に小姓組、若殿御付近習番を命じられ、その後、近習小姓となって28歳で切腹して果てました。1855年のことで、子供がいなかったために、江戸近習医の湯浅正景の二男を末期養子としました。大谷津孫之丞(進、道)です。一方、大谷津には別流があり、天明飢饉の折に悪名を残した用人、大谷津七郎茂成の系統があります。七代目に浦之丞(三内)の名がありますが、六代名乙蔵は名跡相続と、家としては成り立っていないように思えます。
明治二年絵図をみると、塩分町に大谷津三内の名が見られます。単純に考えると、この家は別系統の大谷津浦之丞(三内)と考えられますが、大きな役職もなく、名跡相続をした家が塩分町という中流家臣の地区に住むのはおかしいように思えます。大谷津家の初代、孫之丞茂弥(三内)といい、岩五郎の末期養子も初代の名にあやかり孫之丞と付けたところから、塩分町の大谷津三内は大谷津孫之丞(進、道)であった可能性が高いと思います。
やや複雑な話ですが、養子にいった藩医、湯浅家は初代健立、二代健立、三代正甫、四代正甫、五代養俊、六代養俊となっています。同じ名前が二代ずつ続くのでしょうか。湯浅正景の名はありませんが、四代、あるいは五代の息子と思われます。明治二年絵図では冨田新町の山鹿次郎作の右、藍原衛門の左にその名があります。
弘前藩では末期養子は17歳以上と一応は決められていたので(幕末はかなり適当)、大谷津孫之丞(進)の生年は、1838年くらいと思われる。テッド、ハリー青木の母親、大谷津まさ子が青木定義と結婚したの1918年ですが、東京女子師範学校卒業後でやや年齢がいっていたとして24歳ころに結婚したとすると生年は1894年となります。そうすると、孫之丞の娘とすると、孫之丞46歳との時の子となります。もしかして孫之丞の孫に当たるのかもしれません。
明治3年の弘前藩の賞典に、近習小姓として大谷津三内の名があり、金300疋の褒美をいただいています。孫之丞が殉死した岩五郎の同役を継ぎ、三内と称していたと思われます。
ここまでまとめると、あくまで推定ですが、テッド、ハリー青木の母親は、弘前藩の近習小姓をしていて、明治二年当時塩分町に住んでいた大谷津孫之丞の娘あるいは孫の可能性が高いように思えます。実家が江戸詰め藩医であり、東京女子師範出の才女であれば、こういった優秀な子供達にも血は受け継がれていったのでしょう。
*自分のブログに書いておいて忘れていました。湯浅正景は明治3年貢進生として大学東校のいった人物にその名が見られますが、貢進生は16から20歳で、どうも年齢があいません。難しい。
*自分のブログに書いておいて忘れていました。湯浅正景は明治3年貢進生として大学東校のいった人物にその名が見られますが、貢進生は16から20歳で、どうも年齢があいません。難しい。
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