明治時代、多くの優秀な人物が青森から輩出している。この理由を考えると、津軽特有の厳しい風土、生活と関連するのは間違いないが、幕末の若者に対する教育のもつ意味は大きい。
弘前藩では、1730 年に藩校である稽古館を作った。今の弘前市立図書館当たりに、立派な建物を建て、優秀な教師を招き、教育を行った。ただ、財政難もあり、早い時期に縮小され、城内に小さい規模の学校を作り、明治までほそぼそと継続されていたのが実体である。初期の稽古館こそ、地図、測量、暦、津軽一統誌の編集など活発な活動を行っていたが、その後は大きな業績はないし、人物も現れていない。
こういった官学の現状に対して、幕末には危機感から多くの私塾が弘前にできた。これらの私塾から多くの優秀な人物が出て来て、最終的には東奥義塾という私立学校に収斂していく。
1.
工藤他山と思斎堂
弘前城の西、馬屋町にあった工藤他山の塾である。工藤他山(1818-1889)は、弘前藩士、古川儒伯の二男として生まれ、幼少から学力が秀でていて、藩校の稽古館に入学した。その後、若くして助教となり、江戸、大阪で修学し、稽古館の助教をするかたわら、私塾、思斎堂を開校した。幕末期、最も多くの子弟を集めた塾であった。場所は馬屋町の馬術指南、有海家の地所であったとされていたが、明治初期の地籍図から、使われなかった馬場にはみ出た形で、有海家の横に塾があったことが判明した。地所の大きさは横20間、縦10間の長方形の敷地である。坪数でいうと200坪になるが、すべて建物があったわけではない。笹森儀助や陸羯南を育てた。笹森儀助が郡長であった時に他山に教えを請うたところ、他山は「官大小高下の異ありといえども、同じく是れ天工に代わりて、天職を奉ずるものなれば、決して卑職細務を以て之れを軽忽(けいこつ、軽視する)に附すべけんや。蓋し天下の大政重事も亦小吏細務の積累より成れるものなれば吏務といえども亦大政中の一分子なり。故に荀(いやしく)も吏務の職を奉するもの此心を失う事ならんば事必ず成らん。」長男は工藤隼太、二男は外崎覚。
2.
兼松石居と麗沢堂
儒学者の兼松石居の私塾、麗沢堂は茶畑町にあった。住居兼、塾で、家の片隅の四畳の間に机と硯、いつも読書と著述、唯一の楽しみは一合の酒と豆腐という生き方だった。若い時から神童と呼ばれ、当時の最高教育機である昌平坂学問所で学び、塾長までしたが、驕ることなく、藩主に対しても諌言し、その最盛期に蟄居された。幕末になり、許されて開校したのが麗沢堂である。工藤他山の思斉堂の子弟には下級士族、町人が多かったが、石居の麗沢堂は上、中級の士族が多い。本多庸一、珍田捨巳、菊地九郎などが子弟である。石居は津軽の士には珍しく、江戸で育ち、昌平坂学問所などを通じて、多くの交友関係があった。自分の立場をよくわきまえ、こういった交遊関係を利用した。以前、師事していた教授は、「教授なんか大したことないが、教授という名を出すと解決することがある。そういった場合に利用したらよい」と言っていた。大事なことである。
3.
櫛引儀三郎
櫛引儀三郎は文政三年(1820)に2月1日に櫛引左門の三男として代官町に生まれた。儀三郎二歳の時に父母を失い、祖母に養育された。三十俵五人扶持で、祖母が病床に臥してからは貧困を窮め、鷹匠町小路に転居した。家計は苦しかったが、儀三郎は山で薪をとり、米をついて家事を手伝いながら、学問をした。やがて藩校の稽古館の典句に採用され、その後学問が認められ、十二代藩主津軽承昭の時代の慶応三年(1867)に稽古館学士・碇ヶ関町奉行格となり、藩主の侍講ともなった。儀三郎の兄、櫛引礼次郎は長尾家に養子に行き(長尾周庸)、その子が長尾介一郎で、兼松石居の高弟となり、石居の次女、りかと結婚する。櫛引儀三郎と兼松石居は、長尾介一郎を介して親戚となる。儀三郎は維新後、五所川原の羽野木澤に半ば隠遁のような形で、農家をしながら私塾を開き、近所の子弟に教えた。政治家、工藤行幹は、儀三郎の二男、長男の英八は県会議員となり、その四男の武四郎は孫文の中国革命に参加したことは前のブログで述べた。
現在でも学習塾という私塾があり、大部分は大学、高校、中学入学を目指した受験塾となっているが、幕末のように若者に対して人間の生き方を教える人間塾のようなものがあってもよさそうである。
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