ノートルダム清心女子大学の横山学教授から「ハワイ日系二世坂巻駿三と津軽藩江戸詰坂巻家」という論文をいただいた。すばらしい論文である。当初、坂巻家と山鹿家との関係についてメールにてご質問いただいたが、坂巻という名は弘前では全くおらず、青森県人名事典や、こちらの手持ち資料でも坂巻の名はなく、関係ないといった返事をした。素人のお恥ずかしい次第である。
この論文によれば坂巻家は元禄十二年というから、西暦で1699年から江戸詰めの藩士として明治維新まで六代にわたり、弘前藩に仕えた家だった。六代目の坂巻久雄は世子の津軽武之助の「御相手」を務め、その後、近習番、御側役を務めた。津軽武之助は承祐のことで、武之助が初帰国の際に急死したことから同じ近習番の大津谷茂正、舘山源右衛門は責任をとって自刃した。さらにはその後の世子血統争いでは、兼松石居、珍田祐之丞(珍田捨巳父)はじめ、多くの藩士が処分された。坂巻久雄は江戸藩邸に留まり、帰国しなかったので、処分はされていないが、当然、世子血統派の主張を支持していたのであろう。
こういった代々江戸詰めの藩士は、津軽弁もできず、弘前には知己は少なく、また家もなかった。それが廃藩置県にともない、江戸藩邸は閉鎖され、帰国させられる。坂巻家も明治元年3月18日に江戸を出立し、おそらくは山鹿の家にしばらくいたと思われる。
横山先生の論文から、坂巻久雄の弟の三千雄は天保三年(1834)生まれで、元治二、三年ころに山鹿家の養子となっている。不幸なことに函館戦争で負傷し、その傷がもとで、明治三年に亡くなっている。息子はキリスト教伝道者の山鹿旗之進で、明治二年弘前絵図では戸主として山鹿旗之進の名が冨田新割町に見えることから、死ぬ前に三千雄は家督を息子に譲ったのであろう。従兄弟の山鹿元次郎の家もすぐ側にある。戸主は山鹿次郎作となっていて、元次郎の祖父の次郎作高久のことか。両家はすぐに茶畑町に移る。坂巻家は従兄弟の息子の山鹿旗之進の家で暮らし、病気療養している弟の三千雄の看病をしていたとみたい。元禄のころから260年以上江戸にいたため、弘前の生活は慣れなかった。坂巻久雄は明治三年には再び上京し、商売をしていたが、明治六年に死ぬ。久雄の三男の銃三郎は明治二年弘前生まれとなっており、冨田新割町かその後の茶畑町の山鹿家で生まれたのであろう。銃三郎は、明治16年、わずか15歳で有志を抱いてアメリカ本土に密航する。貧乏でもアメリカなら皿洗いや家事手伝いをしながら大学へ行けばよいと考えた。しかしながら渡米したものの、仕事しながら大学で勉強するのはなかなか難しく、母の病気を知るや、9年ぶりの帰国を決意した。帰国途中のハワイで母の死を知るや、そこで製糖会社で通訳兼マネージャーとして務めることになった。。ハワイで広島出身の山中ハルと結婚し、七男二女をもうける。三男、坂巻駿三は苦学し、ハワイ大学、同志社、コロンビア大学で学び、1939年にはハワイ大学日本史の教授として、1955年からはハワイ大学の夏期大学学長をつとめた。また琉球沖縄の基礎的資料、宝玲文庫をハワイ大学にもたらし、今日、琉球研究の拠点となっている(弘前出身の笹森儀助、加藤三吾といい、北国の人にとって沖縄、琉球はあこがれである)。弘前から、明治10年には珍田捨巳ら5人がアメリカへ、さらに明治17年には笹森卯一郎ら3人が同様に留学し、また従兄弟である山鹿旗之進も明治22年(1890)にアメリカに留学する。当時、津軽から多くの日本人が渡米している。
写真上はハワイの製糖会社での坂巻銃三郎(左から二番目)、写真下はハワイ大学の坂巻駿三である。
坂巻久雄の弟、三千雄は山鹿家に養子に、次の弟、有成は山本弥十郎有龍の養子となり、名古屋外国語学校、東京医科大学を卒業後、宮城医学校教諭兼病院の医者となると横山先生の論文にある。松木明知著「津軽の文化誌 IV」には、明治十九年六月、宮城医学附属病院での写真が掲載されている。山本有成は明治17年、7月に東京大学医学部別科を卒業し、10月から宮城病院に勤務。明治32年9月にニューヨーク市医科大学に入学し、明治35年に卒業し、ヨーロッパの諸病院を見学して帰国。その後、仙台の元荒町に外科病院を開業したとある。
明治二年絵図では山鹿本家、分家は隣同士、山本家(山本弥十郎)は斜め前の近所である。
明治二年絵図では山鹿本家、分家は隣同士、山本家(山本弥十郎)は斜め前の近所である。
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