櫛引武四郎(1875-1913)
櫛引武四郎は、弘前藩の儒学者、櫛引儀三郎の長男英八の四男として明治8年3月、青森県北津軽郡七和村(羽野木澤)に生まれた。祖父、儀三郎は弘前藩では学者というより教師として著名であり、本多庸一、珍田捨巳、一戸兵衛などの多くの人材を育てた。櫛引という名は津軽では珍しいので、名前を言えば、皆して櫛引先生のお孫さんかと言われたであろう。
武四郎の性格は祖父儀三郎と似通ったところがあるので、儀三郎について簡単にふれる。儀三郎(1820—1879)は櫛引左門の三男として代官町に生まれたが、二歳の時に父母を失い、祖母に養育された。三十俵五人扶持で、祖母が病床に臥してからは貧困を窮め、鷹匠町小路の小さな家に転居した。家計は苦しかったが、儀三郎は山で薪をとり、米をついて家事を手伝いながら、学問をした。やがて藩校の稽古館の典句に採用された。津軽順承(ゆきつぐ)の世子問題では、12代弘前藩主として細川藩から養子に迎えると決まっていたにもかかわらず、敢えて反対の諌言をし、罷免された。気骨ある態度である。その後、その才を惜しまれ、再び稽古館学士・碇ヶ関町奉行格となり、藩主の侍講ともなった。維新後、儀三郎は世俗には未練がなく、隠遁して百姓になろうと明治二年に五所川原の羽野木澤に移った。ここで農家をしながら、私塾を開き、近所の子供に教えた。櫛引儀三郎には五男一女があったが、長男英八は五所川原村会議員、県会議員を勤め、二男の峰次郎は工藤家に養子に入り、工藤家を継ぎ、後に衆議院議員などを勤めた(工藤行幹 ゆきとも)。また三男謙海は仏門に入ったが19歳で死亡し、五男秀五郎も18歳で死去した。四男、晴四郎は桑村家に入り、長女は蝦名家に嫁した。
櫛引英八には、4男3女がいて、長男が繁之進、次男、純二郎、三男、雄三郎、そして四男が武四郎である。長男、繁之進(慶応二年生まれ)は東奥義塾、函館商船学校で学び、日清、日露戦争では御用船に乗って、軍務に従事した。その後は「藻寄丸」など日本郵船で船長をした。二男、純二郎は化学の方に進み、大正10年より同14年まで東北帝国大学金属材料研究所助手を勤め、14年または15年に亡くなった。
外交官、珍田捨己が昭和3年に書いた「櫛引錯斎先生」という文の中に次のような記述がある。
「先生には五男一女があった。長は英八(櫛引英八)、次は工藤(工藤行幹)の姓を昌し、次は女子、三男、五男は夭折し、四男(櫛引晴四郎)は桑村家に養われた。両兄(櫛引、工藤兄弟)は常に国事に莽走していたので、其家事向から子供の教育は大半弟の手に委せられ、弟は之れを吾が子の如く撫育し、而も先生伝統の硬教育で、或者は往復六里の道を通学せしめたり、或者は虚弱のため牛乳配達をさせられたりしたが、両兄はそれについては更に言を挿まなかった。殊に英八君の第四子武四郎は非常に頑固な性質であったので、或時之を麻縄で縛して、井戸の水の中に水とすれすれに1時間も釣り下げられた事もあった。而かも斯子は往年朝鮮の或る事件に連座し外務省では今も尚之を行方不明としている。」(伯爵珍田捨己伝 菊池武徳編 昭和13年)
櫛引武四郎は、東奥義塾を卒業すると、陸軍教導団に入り、日清戦争では一等軍曹として出征し、比類稀なる活躍で功六級金鵄勲章を授けられた。腸が露出するほどの重傷を負ったが、奇跡的に一命をとりとめた。その後、健康を回復し、同郷の先輩の山田良政を頼って、一級下の山田純三郎と一緒に中国大陸に渡った。新しく出来た南京東亜同文書院に入学する(19名、一回生)。
近衛篤麿(近衛文麿元首相父)が中国問題を研究する目的で設立された東亜同文会を母体として1900年(明治33年)に同文書院は設立された。日清戦争後、日本では中国に対する関心は一挙の高まり、中国蔑視論や改革論などさまざまな議論がまきおこった。一方、当時の日本人の中国に対する一般的な見方は論語に代表される古典からの知識であり、時代に沿ったものではなかった。ことに中国人そのものについては理解が乏しく、生の中国、中国人を学び、将来の日中関係の架け橋になる人材育成の目的で、中国に日本人の学校を立てる構想が浮かび、現実化したのがこの同文書院である。
当初は南京に学校が建てられ、国内各府県から給付生を募る方式がとられた。すべての授業料、寮費、食費も無料、おまけに小遣いまで支給された。ただ給付生募集の時期が都道府県の予算成立後であったため、実際に給付生を派遣してきたのは広島、熊本、佐賀の3県だけで、そのため一期生はわずか20数名(実際は19名)であった。ただ青森県では陸羯南が東亜同文会に参加していたこと、近衛家と津軽家の関係が深かったことから、山田純三郎、櫛引武四郎、宇野海作の3名の参加があった。在学中に純三郎の兄良政が革命を企てると知ると、無理矢理ついて行き、孫文の初期の革命である恵州蜂起(1900)に参加する。良政はここで処刑されるも、武四郎は九死に一生を得て、逃げることができた。
笹森儀助書簡集に、明治35年(1902)に櫛引武四郎から笹森儀助宛の手紙が載せられている。恵州革命から2年後である。抜粋すると「自分は櫛引英八の長男で、中国およびインドの革命に奔走しているものだが、一度韓国の義州から海城をへて、牛荘に行った折、山田良政とお尋ねしようと思ったが、そのときは不在で会えなかった。その後、恵州起義で山田良政の行方がわからず、あちこち探しまわったが、結局はわからず、今は革命資金?をためている。是非一度会っていただけないか。」というものである。
その後も革命に従事するが、大正2年(1913)の第二革命において袁世凱の官兵により南京戦で殺害される。享年38歳。家鳳著「中山先生輿國際人士」には、「上海東亜同文書院ができた当時の院長は佐藤正、委員には佐々木四方志、山田良政らがいた。教務長は山口正一郎で、学生には山田純三郎、安永東之助、柴田麟次郎、大原信、櫛引武四郎ら19名がいた。佐藤正院長は着任後すぐに辞職し、同年陸軍少佐根津一が代理となった。」となっている。山田は明治9年生まれ、櫛引は明治8年生まれで、朝陽小学校、東奥義塾は同級ではなかったが、南京東亜同文書院の一回生では同級生であったことが確認される。武四郎の最後については、「今泉三八郎・佐賀県人・海軍兵学校退学生・常に沈黙寡言の風格をもつ青年で、中国二次革命初期に上海に来て革命軍に参加した。志村光治らと上海機器局上流に停泊している中国軍艦を爆破しようと計画した。 略 南京陥落した日、混乱した軍の中には志村以外にも、櫛引某(注:武四郎)、建部某ら、その他の者がいて、朝陽門のところで敵の襲撃にあった。その後、二人の敵を倒し、雨花臺にあった何海鳴司令部に逃げた。二次革命も南京戦からは、戦いが激しくなり、混乱して状況もはっきりしなくなる。指揮官の何海鳴に不満をもつ志村、今泉以外の、櫛引、福田ら多くの日本人が純真な気持ちから革命に参加し、軍事的な援助を行った。南京革命軍には10余名が参加していたが、彼らは状況が次第に危機的になっていることを知らなかった。言葉もわからないため、一時領事館に避難しようとしたが、途中多くものが官兵により殺害された。その中に今泉以外の櫛引、建部、秋葉らの3名がいた。殺された死体の背広の裏には、「タ」の印があったことから、亡くなったのは建部とわかった。この建部は建部子爵(林田藩)の甥であったことから、家族が南京領事館に訴え、外務省でも困惑したようである。九州佐賀出身の林 傳作もこの戦いで肺に弾を受け、病院で亡くなった。」となっている。かなりの数の血気にはやる元日本人軍人が、第二革命に参加している。文中の志村光治については、「同文書院記念報Vol4」の孫文、山田良政、純三郎関係資料の中に、山田順造宛の1962.10の手紙があり、住所は神奈川県横須賀市となっている。戦後、志村氏が当時の手記を残しているなら当時の詳細がわかるかもしれない。
これまでのブログとその後の調査でわかった櫛引武四郎の事柄である。武四郎は中国革命を支援というより実際に参加した人物だが、全く知られていない人物であり、今後の研究が待たれる。
写真上は、珍しい制服姿(満鉄)の山田純三郎と菊池良一、写真下は陳其美と京都嵐山で遊ぶ山田純三郎である。好きな写真である
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