2014年10月6日月曜日

六甲学院サッカー部2



 歳をとるにつれ、記憶力は衰える。このブログでも六甲学院のことを何度か書いたが、間違いが多い。

 六甲学院サッカー部の全盛期は佃幹夫先生が一番、気合いの入っていた昭和43年ころから昭和48年ころ、26期から31期が中心となった時代だった。1819期の時代も近畿大会に出場するなど、兵庫県、神戸市でも強豪校であったが、佃先生が昭和34年に体育教師に就任され、サッカー部の指導をするようになると、メキメキと力をつけた。

 昭和433月には、26期生を中心としたチームが近畿大会出場し、初戦に勝ったものの、準決勝では優勝した甲賀高校に惜敗した。その夏、長野県の戸狩村で合宿を行うが、高校生は26期生が引退し、27期の高校2年生は4名、28期の高校1年生は5名、29期の中学3年生が10名というさびしい陣容であった。ただ29期生には現在、俳優として活躍している大谷亮介さんなどサッカーセンスの高い選手が多くいたため、29期生が中心となった昭和465月のインターハイ兵庫県予選を勝ち抜き、六甲学院で初の全国大会出場となった。徳島で行われたインターハイでは、一回戦は米子東高校と対戦し、快勝したものの、二回戦では前年優勝校の浜名高校に逆転負けで破れた。

 昭和48年3月は、31期生が中心で、兵庫県予選で優勝して、京都で行われた近畿大会に出場した。一回戦は奈良の畝傍高校を3:0で快勝し、二回戦は京都商業に2:1でからくも勝ったが、準決勝は強豪の甲賀高校で、1:1でのまま引き分け、延長戦後、コイントスで勝利した(当時は今のようなPK戦はなかった)。そして決勝は、嵯峨野高校に1:0で勝利して、第25回近畿高等学校蹴球選手権大会を制した。

 ここまで六甲学院同窓会誌「伯友」(2013,13号)、“追悼 佃幹夫先生帰天”を参考にして書いているが、私もこの近畿大会には一回戦、二回戦、準決勝の3試合にGKとして出場しているが、自分の記憶では一回戦と準決勝の記憶しかなく、3つも試合したとは、この記事を読むまで忘れていた。さらに準決勝の相手は、赤のユニフォームを着た大阪代表の北陽高校とばかり思い込んでいたが、実際は滋賀代表の甲賀高校であった。甲賀高校はかなり大柄の選手が多く、小柄な六甲学院のチームではヘディングでは負けており、クロスボールに反応が遅れ、ヘディングでゴールされたが、反則か、オフサイドで無得点になったことだけ覚えている。ゴールされたとわかっていても、何も反応しないのはカッコ悪いので、ジャンプしただけだった。決勝は腰痛で欠場していた31期の雲井さんが復活して、無難な仕事をしたが、それまでの3試合は私のような不器用ものがGKしていただけにひやひやものであった。

 試合後、阪急六甲駅前の中華料理屋で、OBたちが祝賀会を開いてくれた。年配のOBも駆けつけてくれ、OBと会ったり、話したりすることもなければ、こういった祝賀会というのも初めてで、緊張した思い出がある。

 今はどうかしらないが、当時は高校3年生になれば受験のため、引退し、5月のインターハイ予選には、新チーム、高校2年生、1年生主体のチームで参加したが、31期生の何人か、浜田さん、辻村さん、白井さんなどが入った。ところが、西宮東高校で行われた決勝では、私のポカミスで神戸高校に3:0で負け、全国大会への出場は逃した。31期生とは違い、我々32期生は勝負への執着が少なく、何としても全国大会に出ようという意気込みがなかった。負けてもそれほどくやしくなかった。

 高校二年生の時は、佃先生が兵庫県の国体選抜チームに関係していたため、六甲学院からも大谷、関と私がその練習に参加した。GKの練習はいいのだが、最後に100m14秒で走り、帰りは1分で流すトレーニングがあった。10本だが、一人でも14秒を越えると全員、もう一度走らされる。私は鈍足で14秒がいっぱいだったので、私のために他のメンバーが何度も走らされ、その後のサーキットトレーニングでは両足の太もも、下肢の四つの部分がつった。しばらくは歩けず、そのまま練習からは離脱した。関は最終的には選抜メンバーに選ばれたが、校長から勉学に励むように説得され、辞退した。一週間の練習は3日、試験前の1週間は中止、授業を休んでの試合はできないなど、進学校特有の制限があった。よくこんな少ない練習量で、兵庫県で強豪だったかはわからない。佃先生の先端的な練習法の賜物と思うが、今のようなサッカーブームの中では高校サッカーも完全にプロ化しており、六甲学院のような進学校が近畿大会や全国大会に出場するのは不可能なのだろう。

 写真は、昭和46年、広島の国泰寺高校で、神戸市選抜:広島市選抜(中学)を行ったときにテレビ解説をしていただいたのが、日本代表キャプテンだった八重樫茂生さんだった。八重樫さんのサッカー本は、私も愛読した。

6 件のコメント:

寺田次郎 六甲学院・関西医大放射線科不名誉享受 さんのコメント...

いまでも、実力本位で選べば、六甲学院から2-3年に1人は日本代表クラスの逸材はいると思いますが、大人の事情でしょう。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントいただき、ありがとうございます。最近のサッカー部はよく知りませんが、作年、母校を訪れた時に人工芝の美しいグランドに驚きました。29-32期の頃は、佃先生が兵庫県のサッカー連盟で力を持っていたので、私なども国体選手の練習に参加させてもらいましたし、中学の時は神戸市の選抜などにも選ばれました。これなどは実力もないので、コネで入ったようなものです。また大阪、神戸、京都大学では、サッカー部の卒業生が入学すると、すぐに勧誘がくるほど、ある程度は六甲学院も有名でした。同期生も早稲田大のサッカー同好会で岡田前監督と一緒にプレーしたと聞きました。
寺田先生は、最近のサッカー部のことをよくお知りになっており、個人的にはそれだけ逸材がいるのでしょう。関学の宇良ではないですが、一人くらいプロの選手になってほしいところです。

寺田次郎 六甲学院・関西医大放射線科不名誉享受 さんのコメント...

書くだけ書いて、すっかり忘れてました。
申し訳ありません。

クライフの言葉を紐解けば、「サッカーは足でやる頭脳戦」ですから、サッカーを愛する少年は技術と身体能力がある程度付いて来れば、世界でもやりあえますよ。
中田英寿の身長と体重を知れば、フィジカルとは身体のサイズや筋力だけでなく、身体の使い方や頭の使い方も重要であると分かります。
それと、大人の事情も。

分かりやすいフィジカルのもたらす一般人ウケの問題と、勉強のできる子がスポーツの道にのめりこみ過ぎないように調整されているだけです。
残酷ですが、サッカーはスターリンのいうパンとサーカスの後者であり、パンを作り、パンの食べられる環境の維持のために、才能があっても筆を折られるということです。
サッカーというスポーツは、芸能界の一部のスポーツ芸能の一部です。
それが社会主義の体現として、政治力が発揮されるわけです。
イングランドがワールドカップで弱いのはプレミアリーグの過密日程だけが理由ではないでしょう。
わざと移民にチャンスを多く与えて、自国のサッカー選手が育ちにくいように調整もしています。

昨今の京都大学出身の野球選手や、東京大学出身のサッカー選手もそうでしょう。
そんなものに負けずに、高学歴者のスポーツ選手も増えてほしいものですが。
そうしないと、スポーツも勉強も頑張る教育産業が振興されないでしょう。

ある程度の力量の選手同士であれば、ボールより速く走れる選手はおらず、頭の神経伝達速度よりも速いボールは蹴れません。
だから、シャビやイニエスタが大活躍できたわけです。
いまは揺り戻しで、頭脳派の選手に冬の時代ですが、その愚かさにサッカー界も気づくでしょう。

僕は学歴しか興味のない家庭の事情と、人間関係の問題と分かりにくい才能のせいで、高校も大学もベンチ止まりでした。
社会人サッカーも含めて、数えるくらいしか先発していません。
「普通の人が見えないものが見える」ということへの評価は、信頼してくれる仲間や指揮官の評価に依存します。

でも、CIRSE=欧州血管造影学会のサッカー大会で、プロを蹴った天才とシンクロ出来ました。
レアル・ソシエダのキャプテン・プリエトのお兄さんの救急医。
アンダーのスペイン代表でもあったそうです。
ボール扱いのセンスはかなうわけもなかったのですが、人の心や体の動きを見抜く感覚や戦略眼は互角以上だったと思います。
理由は簡単で、僕は報われないサッカーがかけてくれた呪いに真面目に向き合ったからです。
そんな判断とは別に、プロをもしのぐ才能との共演自体が喜びでしたし、おそらく、大人の事情との妥協の中で、六甲生が目指すべき未来は同じように努力した人間たちとの真剣な時間かもしれないと思いました。

アマチュアがプロより下手という理屈には根拠がありません。
アマチュアよりもプロの方が一般論として戦闘条件が優位なのは確かですが、アマチュアにも生活と精神の安定、仕事を通じたサッカーに活かせる学びという長所があります。

最近はサッカー部も入部者が減っているそうです。
一ケタの入部者のようです。
確かに、ベンチやベンチ外でとても長く過ごした自分を思えば、賢い選択ですし、時代の流れだと思います。
ただ、このままでいいのかとも思います。
大人の事情で、市選抜でもベンチ止まりというのは僕の前後の学年の実績と才能ある選手でもよくありました。
でも、大人の事情に流されすぎると、努力することの意味を見失うでしょう。
プロになれなくても、プロにならなくても、明らかにプロよりうまい選手が育ってくるのを疎外するのは六甲学院として良くないと思います。
対外試合のない、ままごとのサッカーしかしていない子供は、ビジネスの世界で、世界の猛者と戦って、分かりあえるのでしょうか?

まあ、悔しいので、サッカーの才能を医学と政治の文字にする才能に転化しています。
読売新聞のコラムから、日本を席巻してやります。
でも、サッカーの才能との関連付けは捨てませんけどね。

サッカーは人生の縮図であり、サッカーを学ぶことは全てを学ぶことです。
逸材なんて、どこの世にも、どこの学校にもいるものです。
それが幸せか否かは別として、気づかれようと気付かれまいと努力を続けることが大事です。

サッカーなんて八百長でコントロールできるくだらないものだと「シークレットフットボーラー」という本が教えてくれますが、医療もくそったれなのは全国のバルサルタン捏造論文や腹腔鏡殺人手術事件で明らかですし、どっちもどっちです。

栄光学園、広島学院、上智福岡との試合の後で、ベンゲルノートという本と相馬直樹の組織論の本を各校に送付しました。

「遊びのサッカーさえ真面目にやらない子供が仕事なんか一生懸命出来るはずがない」という思いと、「フィジカルバカの下手くそばかりだと人生が退屈」という身勝手な理由ゆえです。

少子化のご時世とはいえ、六甲学院や姉妹校に入る程度の能力がある子は必ず素質か努力が優れているわけですから、その日の評価に負けずに頑張ってほしいと思います。
生まれたその日に言葉を喋ったのはお釈迦さまだけで、我々に多少の才能の多寡はあれど、創意工夫と努力に勝るものはありません。

https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20171205-OYTET50016/?catname=column_son-mihyon#comment-51003

広瀬寿秀 さんのコメント...

以前のブログにも書きましたが、ノーベル物理学書のニールス・ボアはノルウェイ代表GKでした。またコナンドイルはポーツマスFCの前身のチームのGKです。他にはアルベール・カミュや詩人のアルベート・ナバコフ、ヨハネ・パウロIIもGKで活躍しました。同級生の大谷くんのお父さん、大谷四郎さんは東京大学、伯父さんの大谷一二さんは神戸商業大学(神戸大学)で、戦前はFWとして日本代表あるいはそれに近いポジションでした。そういう意味では現在でも、進学校にも充分にプロになる才能をもつ子はいるのでしょうが、それが開化するような環境になっていないのでしょう。

寺田次郎 六甲学院・関西医大放射線科不名誉享受 さんのコメント...

ノーベル賞学者が代表GKで、コナンドイルもプロかセミプロのGKですか、そう言ったことは存じ上げませんでした。
プロ化と商業化成功および軍需産業の関連との弊害で、フィジカル優位になったことと、他の職種への人口の移動が進んだのですね。
オシム監督がサッカー選手になったのは数学者で食えなかったことも似ています。

GKというのは、キャッチャーで言えば捕手に当たるのですから、観察眼が生きたのでしょう。
スポーツ選手としても、学者としても。
クライフも野球のユース代表の捕手だったそうです。
野村克也は「一人だけ違う方向を向いているのが捕手」と言葉にしていますが、凄く大事なことかもしれません。
リベロやスイーパーにも通じるところはあるでしょう。

スポーツ選手になることは良い事ばかりではなく、堅い商売の方が人生も精神も安定するのは確かですが、安定の為だけに使う人生はおそらく人間の心に歪みを生じさせるのではないかと思います。

悩みは尽きませんね。

秋のサッカードクターセミナーは10月の13日と14日に青森か弘前の予定だったと思います。
医師と歯科医師は参加可能ですので、可能でしたら、参加されると楽しいと思います。
僕は別件もあってまだ未定ですが、弘前大学の整形外科の飯尾先生(52期か53期あたり)も参加される予定だそうです。

あと、3月24日に、灘、甲陽、六甲、甲南の四校対抗が灘で開かれるそうです。
灘高サッカー部の90周年だそうで、イエズス会の四校対抗と違い、今年だけの公算だそうです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

弘前大学整形外科の飯尾先生というのは、現在、国立弘前病院に勤務している飯尾浩平先生のことでしょうか。
もしそうなうなら早速連絡してみます。とういのは青森に来て23年、まだ一度六甲の後輩に会ったことはありません。