私の父親は、大正8年生まれで、徳島の脇町中学校を卒業後に、東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)に進んだ。戦局の悪化に伴い昭和17年に卒業が早まって、徴兵されて兵隊となった。内地では地図作成などの教育を受け、幹部候補生となった後に、中国に配属された。最終階級は陸軍中尉であった。終戦時にはソビエト国境にいたため、ソビエト軍の侵略後、すぐに捕虜となり、ロシア、モスクワ南部の捕虜囚虜所に入れられ、3年後に帰国する。すでに大阪で開業していた先輩をたより、大阪、神戸など色々な診療所に勤務した後に、昭和27年に尼崎市東難波町に待望の歯科医院を開業した。といってもこの診療所は、立花にあった中島歯科(作家中島らもの実家)が建てたもので、父が亡くなるまで安い家賃で借りていた。
当時の尼崎はようやく敗戦の痛手を脱出し、工場がたくさんでき、そこに勤務する工員も多かった。家の前の道は、今では人通りも少ないが、昭和30年代は中小の工場や旭硝子に出勤する工員がたくさんおり、それを目当てにした酒屋、食品店、菓子屋、薬屋、理髪店などが軒を並べた。また近くには旭硝子の課長が住む社宅、30坪くらいの家が20軒ほど並んでいた。玄関、小さな庭があるそこそこ立派な家で、昔は会社が役職に沿って、こういった家まで手当してくれた。
診療所は15坪の家の一階2/3くらいで、玄関からまっすぐに4mくらいの待合室があり、その横が診療室と技工室になっていて、奥が4畳半くらいの台所であった。歯科用ユニットは一台で、足でこいで高さを調節し、椅子を横にする、頭の部分を調節するのはすべてレバーを緩めておこなった。当然、タービンと呼ばれる高速の切削器具はなく、丸いモーターからベルトが伸び、それが切削器具の後ろについていて回転させるものであった。ベルトが長い金属棒についていたため、自由に動かすことはできなかった。
治療については子供だったので詳しくはわからないが、抜歯、義歯が多く、子供の治療はほとんどアマルガムであった。昭和40年になると高速回転ができるタービンが出現したため、クラウンやインレーといった補綴物も多くなったが、インレーについては直接法という、ワックスを軟化して直接、形成面に押し当て、彫刻刀で形成して、口の中でスプル線を立て、埋没して鋳造した。
昭和40年代になると国民皆保険となり、それまで特定の人だけが治療を受けれた歯科医院が誰でも安く治療を受けられるようになった。それに伴い、患者が急増し、朝7時頃から外で患者が待つようになり、終わるのも毎日10時ころとなった。昼、夜ごはんは患者を待たせて5分くらいで食べ、再び診療した。最後の患者が終わると、技工をして、決まって11時ころから尼崎の繁華街に繰り出し、毎日2,3時に泥酔して帰って来た。この頃になるとユニットも3台になり、パントモも導入したが、それでも昔の歯科医はほとんど一人で何でもした。うちも早い時期からお手伝いさんがいて母が診療所の受付をし、その後は住み込みの歯科助手を徳島から来てもらって診療助手をしてもらったが、印象から石膏つぎまで父がした。
今のように患者を横にして治療することはなく、歯科医は立って診療していた。40年前と今を比較すると随分変わったが、患者さんにとっては一番大きな変化は、麻酔の針が細くなり、電動となったため、歯の治療は痛いというイメージはなくなった。また子供の虫歯は本当に減った。
兄も歯科医だが、3人の子供は歯科医にならなかったし、私の2人の娘(一人は衣料系、もう一人は学生だが、IT系に内定)も他の仕事をしているため、広瀬歯科も2代で終了である。
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