2016年3月12日土曜日

遺愛女学校の弘前からの学生


 NHKの朝ドラ「あさが来た」では、主人公の白岡あさが女子大学の創立を目指して資金集めに奮闘している。実際に広岡浅子のよる日本で初めての女子大、日本女子大学ができたのは1901年(明治34年)である。戦前の女子は、勉強はできるが、資産がない子女は師範学校へ、資産があり子女にさらに教育させようとする場合は女学校へ進学した。さらに女学校を卒業すると成績優秀者はお茶の水や奈良高等女子師範学校や東京女子医大に進学した。女子に認められた職業は先生と医者しかなかったからである。今のような女性が会社に入り、企業の役員になるようなチャンスはほとんどなかった。

 江戸時代の女子教育は、裁縫や茶の湯、生け花、礼儀作法などの女子教養に限定され、さらに文字を学ぶために寺子屋に通った。上流士族では、子女に和歌、古典文学や諸芸を学ぶことはあっても、基本的には家庭の妻という役割以上のことは求められなかった。こうした時代から明治になると、いきなり女子の教育熱が活発化する。不思議な現象で、それまで女子には教育は必要ないとされていたのが、男子同様に女子でも士族を中心に教育熱が急速に高まる。

 弘前藩でも、幕末、用人(家老に次ぐ高官)、毛内有右衛門の妻、毛内滝子は日本でも有名な女流歌人であったが、これは例外的な存在で、青森での女子教育のはしりは、明治84月にできた東奥義塾の小学科女子部である。最初の生徒数は66名であった。写真が残っているが、生徒の年齢差が大きい。多くの女子は、よほどこの学校の創立を待ちわび、入学したのであろう。この学校のすぐれた点は、女子教師にすぐれた人物がいたことである。中田仲、菊池きく、兼松しほ、脇山つやなど、当時の社会では最高の女子教育を受けた女性が教師となっている。そこでは英語も含めた現代的な教育がなされ、それまでの寺子屋とは一線を画している。

 始めて受けた教育は女性達には刺激があったのだろう。ついで明治152(1882)に北海道、函館に遺愛女学校ができると、もっと勉強したい、英語を習いたいという女性達は、津軽海峡を小さな舟に乗って渡り、寄宿生活をしながら、アメリカ人宣教師から本物の英語を習った。一期生は6名と言われているが、その詳細はわからない。珍田捨巳の姉、珍田みわ(安政元年、1854)は明治22年の最初の卒業生であった。一期生で入学したとすれば、28歳で入学したことになる。みわは弘前女学校、遺愛女学校の舎監を勤め、明治44年以降は東京の珍田捨巳邸で暮らした。敬虔なクリスチャンとして一生独身で通した。他には儒学者の兼松石居の娘、兼松しほ(1844年生まれ)は、東奥義塾の女子部の先生をしていたが、授業が終わると外国人教師イングの婦人に英語を習った。そして38歳の時に海を渡り、遺愛女学校に入学した。おそらく一期生と思われる。弘前女学校ができた時には請われて教師に迎えられたが、結局は津軽家の娘、津軽理喜子の養育、教育を頼まれ、養育係として勤めた。二期生の山田トク(明治元年生まれ)は、東奥義塾女子部から、県立女子師範学校、そして遺愛女学校に入学する。明治23年の第二回卒業生卒業で、この時の卒業生は山田トクといとこの中野うめの2名だけであった。兄は、メソジストの牧師となる山田源次郎と寅之助である。その後、弘前女学校の教壇に立ち、実業家の高谷貞次郎と結婚して、キリスト教徒として種々の社会事業を行った。大和田しなも東奥義塾女子部に入学し、明治11年に17歳で受洗し、遺愛女学校に入った。おそらく一か二期生か。弘前女学校の先生となったが、結婚して内海姓となり、子の一人は伝道師となった。他には今東光の母、伊東あやは四期生、鎮西学院の笹森卯一郎の妻、三上としは三期生か。

 遺愛女学校の初期の生徒は、今の感覚で言うと、かなり年齢の高い女性が多く、教師をしていたような女性が英語を学ぶためにわざわざ入学した。ある意味、女性のための高等教育機関と考えてもよかろう。それにしても明治初期の女性の知識欲は、江戸時代の女性教育の弾圧といってもよいほどの軽視への裏返し、あるいは抑圧されていた欲求の噴出のような気がする。函館も近くなったので、一度、遺愛学院で初期の入学者について調査をしたいと考えている。詳細について、もう少しはっきりするだろう。

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