県民性を現す言葉として、津軽の「じょっぱり」、土佐の「いごっそう」、肥後の「もっこす」があり、これらは日本の三大頑固と呼ばれる。
Wikipediaによれば、
1.土佐の「いごっそう」
行動は大胆不敵にして豪快で、己の主義信念を貫くためには時として、自己より優位の権力を持つものとも係争する反骨精神を有する一方で、気乗りしないことは行動に移さない。周囲の意見に傾聴せず独断専行し、あとから自説が間違っていると分かっても考えを改めず反論のための機会を探るといった、議論のための議論を好む傾向にある。自分が考えるように他人が考えたり行動しないと気が済まず、相手への思いやりや心配り、繊細さに欠けるという。些末なことは気にせず物事を大きく捉えるため、人間の度量が大きく常識に囚われることもない反面、虚栄心があり自分を実際よりもよく見せようとする傾向があると考えられている。物事を曖昧なままにしておくことを嫌い、白黒をはっきりさせたがる傾向にある。
2.肥後の「もっこす」
純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子でも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質を指す。それと相俟って、曲がったことを好まず駆け引きは苦手で、他者を説得する粘り強さに欠け、プライドや反骨精神も強いため、組織で活躍することは向いていないと言われる。「肥後の議論倒れ」という言葉は、議論好きで、それでいて自己主張が強いため議論がまとまらないことが多いことから生まれた言葉である。明るく陽気で人情があるが、口下手であるため誤解されることも多々あるとされ、そういったこともあってか、一度信頼関係を築くとその後は決して裏切らないとされる。単に強情なだけでなく神経が細やかで細かい心配りができるため。九州男児の鑑だとする見解もある]。他に頑固な県民性として知られる高知の「いっごそう」が反権威主義であるのに対し、肥後もっこすは権威主義・事大主義的である点が異なるとされる。ところが津軽の「じょっぱり」については頑固者というくらいしか、いくらインターネットで探しても出てこない。つまりうまく定義できないようである。弘前で「じょっぱり」と言えば、酒の名前であり、日常会話で「あの人はじょっぱりだ」といった会話はほとんど耳にしない。
津軽の詩人に鳴海要吉という人物がいる。今東光とも関係があった人物で、当時今東光は、親が日本郵船に勤務した関係で東京でもそこそこ立派な家に住んでいた。ここを訪問した鳴海要吉はこれこそ人間が快適に住む家だとえらく羨ましがり、感心して帰った。要吉は貧乏で下町の狭い部屋で暮らしていた。1年も音沙汰がないと思うと、いきなり東光のもとに来て、「部屋を改築して二階にもうひとつ部屋を作った」という。「大工は素人だったが、勉強して今では近所のひとから大工仕事を頼まれるようになった」。「それで大家には許可はとったのですか」と聞くと、「それはとっていない。勝手に工事をした」と言う。しばらくして、再び来ると、「大家に言うと、部屋がもう一つ増えたんだから家賃は倍払えというんだよ」とカンカンになって怒る。この間、肝心の詩作はほっぽりだし、もっぱら大工仕事に明け暮れていた。
こういった何かに一所懸命になると、何もかも、場合によっては妻子まで忘れるような人物を「じょっぱり」と呼ぶのかもしれない。他人からすれば、おかしな行動であるが、本人にとってはいたって本気である。生徒が上京すると聞くと、給料をそっくりその生徒に餞別としてやったりする。土佐のいごっそ、肥後のもっこすと違い、津軽のじょっぱりは理性的な頑固というよりは、少し狂気じみた滑稽さを併せもつ。それだけに感情的な側面が強く、他者とは共感されることはない。版画家の棟方志功、奇跡のリンゴの木村秋則さん、小説家の葛西善蔵、愛成園の佐々木五三郎などは、津軽のじょっぱりであろう。
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