孫文の中国革命に協力した日本人に、弘前市出身の山田良政、純三郎兄弟がいる。兄、良政は初期の中国革命で最初に亡くなった外国人で、孫文からもその死を惜しまれた。弟の純三郎は兄の遺志を継ぎ、長年にわたり孫文の秘書として働き、中国革命で大きな貢献をしている。
山田兄弟に関する評伝は少なく、1992年に発行された保阪正康著「仁あり義あり、心は天下にありー孫文の辛亥革命を助けた日本人」(朝日ソノラマ)と結束博治著「醇なる日本人—孫文革命と山田良政・純三郎」(プレジデント社)の二冊と、最近では愛知大学の武井義和著「孫文を支えた日本人:山田良政・純三郎兄弟」(2011,2014、愛知大学東亜同文書院ブックレット)しかなかった。さらに後者は写真を中心とした小册であり、本格的なものは前者の二冊しかなく、これも発行されてすでに24年経ち、どちらも絶版であった。幸い保阪さんの本は、筑摩書房から「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(2009、ちくま文庫)として再版された。
ただ保阪さん、結束さんの本は、どちらも山田純三郎の息子の資料をもとにして書かれたもの。もう少し説明すると、三男の順造さんが父の評伝を書こうと資料を集めていたが、志半ばで亡くなり、そのまとめを託されたのが保阪、結束両氏であった。さらに山田純三郎の保管していた写真、書、手紙などはすべて愛知大学に寄贈されたため、最近発行された武井のブックレットも、基本的にはその資料をもとにまとめられている。山田良政、純三郎ともに寡黙な東北人らしくあまり自分のことを語らなかったため、資料はほとんど残っておらず、そうしたことが研究を遅らせている。
今回、ようやくと言ってもいいのか、三冊目の本、「孫文を助けた山田良政兄弟を巡る旅(2016、彩流社)が岡井禮子さんによって出版された。岡井さんは中国語教師で、祖母、中村満津が山田兄弟の従妹であったことから、興味を持ち、山田兄弟のことを調べだした。以前、私の診療所を訪れ、祖母と山田兄弟の関係について話し合ったことがある。山田良政、純三郎の父、山田浩蔵の妹は東奥義塾の創立者で政治家の菊池九郎に嫁いだことはわかっているが、他の兄弟については資料がなく、お役に立てなかった。おそらく山田浩蔵の兄弟、姉妹の誰かの子供が岡井の祖母だったのだろう。
本書では、山田良政が戦った恵州蜂起の地である皇恩揚や最後の地であるとされる三田祝をも直接訪ね、現地の状況を報告している。中国語の達者な著者にして出来る調査であろう。写真も多く掲載されており、非常にわかりやすい内容となっている。山田良政の妻、敏子(とし子)の写真はほとんどなく、本書では弘前女学校教師時代の敏子の写真が載っているが、これは未見のものである。「津軽を拓いた人々」(相澤文蔵)や「一戸直蔵」(福士光俊著)に、山田敏子とされる写真があるが、本書とは顔つきが違い、これまで間違った写真が掲載されてきたのであろう。小説家、今東光が函館の幼稚園時代の初恋の相手、トシコ先生の写真が見つかったことはうれしい。
山田兄弟に関する他の本としては、甥にあたる拓殖大学の佐藤慎一郎の語りをまとめたものがあり、現在、アマゾンで「天下為公: 孫文と明治の日本人」(寳田時雄著、2015)がKindle版として見られる。佐藤先生の雑談を寳田さんがテープにとり、それをまとめたものなので、研究用資料にはしにくい。例えば、孫文亡き後、国民党のリーダーとして蒋介石を推薦したのは山田純三郎という話の証拠はないが、近親者による肉声は重要である。雑談なため、佐藤先生が大げさに誇張している、記憶違いがあったとしても、この人は決して自分をよくみせようと嘘を言うひとでないので、山田兄弟、とくに純三郎についての話は真実と考えている。併せて是非読んでほしい本である。
3 件のコメント:
拙著についてお書き下さり誠にありがとうございます。あの時は、診療後のお疲れ様のところ突然お伺いしましたのにもかかわらず、親しくお話しをたまわり、大変お世話になりました。深く感謝申し上げます。
岡井 禮子
山田 絵里
山田夫人のトシ子さんの写真は、
いあい女学校の校友会からいただきました。出典をかきわすれてすみません。
どうもありがとうございます。
岡井(山田絵里 筆)
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