2017年6月7日水曜日

弘前藩 江戸時代の銭湯

黒四角は銭湯のあった所


 江戸時代の津軽の風呂事情について考えてみる。津軽領の温泉地として、藩政時代に有名だったのは、大鰐温泉と碇ヶ関温泉で、そこには御仮屋があり、参勤交代の際などに藩主が立寄り、滞在した。普段から「湯聖」とよばれる派遣藩士がいて、温泉の管理をしていていたのだろう。江戸中期以降になると、温泉番付にも、嶽温泉、黒石の温湯温泉、矢立温泉、浅虫温泉、板留温泉、大鰐温泉などが載るようになり、庶民にも湯治の場として有名であった。商人、農民なども息抜きで年に何回かはこうした温泉地に泊まり、リフレッシュした。こうした温泉地は、湯元があり、そこから出る温泉を湯船に引いて、浸かった。水で薄めることはあったとしても、焚くことはなかった。

 一方、町の中にある銭湯は、井戸からくみ出した水を薪で焚いて熱くして使った。湯船にお湯をはったが、冷えるのを防ぐために、廻りを木の壁、屋根で囲み、小さな入り口から湯船に入るようになっている。湯温は高く、50度近く、鉄の棒のようなものを薪で焚き熱くして、お湯を作った。熱い風呂に短時間つかり、洗い場で体を洗うが、その際のお湯は買って汲んでもらう。

 江戸時代の津軽の風呂事情はどうだったであろうか。五右衛門風呂のような内風呂は高価で、農家では名主など限られた家以外はまずなかった。多くの農家では、お湯を沸かして、タライにはって行水するか、手拭で拭くぐらいであったろう。歩いて行ける範囲にあれば、温泉に行くこともあったろうが、めったなことではない。

 武士の家でも、ある程度の家になれば、内風呂があり、そこに入ったと思われるが、数日から一週間に一度くらいの入浴で、大きな家でも毎日入浴することはない。下級士族になると、内風呂はなく、ほぼ農家と同じように、タライでの行水あるいは手拭で拭くくらいであろう。むしろ弘前の町では、商人がもっぱら銭湯を使っていた。

 明治四年士族引越の際之絵図では、明治二年弘前絵図になかった銭湯の場所が記載されている。約20軒の銭湯が見られるが、場所が偏在している。

 東から松森町の両端に2軒の銭湯がある。上土手町に1軒、中土手町に1軒ある。また和徳町にも2軒ある、いすれもすべて町家の場所である。弘前城からやや東あたりには多くの銭湯がある。まず南から銅屋町に1軒、新鍛冶町に1軒、親方町に3軒ある。元寺町に1軒あるが、ここは藩の重臣の邸宅であり、維新後の銭湯である。東長町、亀甲町に1軒ずつある。城に南側では茂森町に3軒、西側では駒越町に1軒、紺屋町に1軒、浜の町に1軒ある。

 この配置をみると、町家を中心に銭湯があり、侍町には1軒も銭湯はない。こうした町家の銭湯にも藩士が行ったと思うが、その妻女が行ったかと考えると、混浴でもあり、考えにくい。おそらく中上級の士族達は、内湯に入っていたが、下級士族は、時にはこうした町家にある銭湯にも行った。

 地図上に銭湯の場所を示した理由としては、江戸時代、銭湯を開業するのは湯屋株が必要であったが、維新後、そうした規制が消滅し、次々に新規の銭湯ができたのであろう。明治四年の絵図上の20カ所の銭湯についても、江戸時代からある銭湯がどこにあったかはわからない。ただ銭湯の配置があまりに偏っており、侍町、町家の区別が付かなくなった時代においては、適切な配置が必要であり、政府としても銭湯開業の許可を出す場合、そうした配置を考慮したのかもしれない。

 いまでこそ、内湯が普通になり、毎日、風呂に入る家も多かったが、昭和30年から40年ころは内湯がある家は少なく、多くの人は近くの銭湯に行った。銭湯好きな人は別として、普通の人は銭湯にいくのは2、3日おきであった。夏場は、汗をかくので庭で行水する家も多かった。江戸時代でも庶民が銭湯に行くのは、それこそ4、5日に一回ほどで、明治初年度の弘前の人口28000人の半分が銭湯に行ったとして14000人、それを20軒の銭湯でカバーしたとすると、一軒あたり700名、一週間に一回として毎日100名である。現在の銭湯でも一日の入浴者数は多くて2-300名であることを考えると、20軒の銭湯で何とかカバーできる数である。

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