2018年1月1日月曜日

アメリカに留学した明治の女医 相澤操 3




前回の続きです。

「実際に、四年間は、わき目もせずに、ただ一心に勉強しました。その結果、相当な成績で卒業することが出来ましたが、これはみな、ヴォクレン夫人はじめ、先生方の恩恵の賜であり、厚く感謝しております。後年の笑い草にもと、当時の成績を書いてみましょう。一年生の時は、全部の科目パスしたという通知だけいただきまして、特にラテン語ではAt the examination held October 5 you obtained 95 as your mark in Latin(十月五日施行のラテン語の成績は九十五点です)というものでした。二年生の時は、貧弱な成績で、次のようでした。Anatomy(解剖学)80 Bacteriology(細菌学)77 Physilogy(生理学) 78 Surgery(
外科学) 92 Patholgy(病理学) 86 Chemistry (化学) 77 Hygiene(衛生学) 80
 三年生の時は前年より一寸ばかり、よかったようでした。Surgery(外科学)88 Prctice(内科) 85 Obstetrics(産科学)83 Gynecology(婦人科学) 81 Miteria Medicine and therapeutics(内科治療学)82 Pathology (病理学) 76 四年生は、卒業の時でしたので、先生方が特に甘い点数をつけて下さったので、割によい点になりました。Dermatology(皮膚学) 95 Surgery(外科) 98 Obstetrics(産科学) 87 Practice(内科学) 92 Practical Gynecology(婦人科)88 Pediatrics(小児科) 97 Otology(耳鼻科)94
卒業の通知書には、次のように書いてありました。 The faculty has decided to recommend you to the Board of Corporators for the degree of Doctor of Medicine to be conferred at the next Annual Commeneement (教授会は、来る卒業式において、貴下に医学博士の学位を授与するように理事会に推薦することを決定した。)この通りMDの学位を頂き卒業することが出来たのは、1910年(明治四十三年)の六月でした。これは全く四年間、学費は勿論、衣食住一切の費用を出して下さったヴォクレンご夫妻のおかげであります。そのご恩は生涯忘れることは出来ません。帰国してからご恩の万分の一でも、お願い申し上げたいと念願しておりましたが、ヴォクレン夫人は、私たちが帰国後数ヶ月で腸のご病気で永眠されましたが、かえすがえすも残念でたまりません」

 これを見ると、相澤のペンシルベニ女子医学校の成績は非常によい。多少は外国人ということで配慮されたとしても、90点以上の点数はなかなか取れない。他の資料でも、当時の女子医科大学は入学はそこそこの数とるものの、卒業はその1/3から1/2という難しいものであり、アメリカ人でも卒業が難しかった医科大学を相澤が優秀な成績で卒業したのは間違いない。明治期の日本の教育は暗記ものが多く、医学教育、あるいは試験は暗記力を試されるものであり、そのした試験には案外、日本人は強かったのかもしれない。

 その後、相澤は、日本に帰国し、病院勤務や日赤巡回診療などに従事するが、アメリカの医学校を卒業したというメリットはない。男子であれば、洋行帰り、ドクターとして大学の教授になったり、大病院の院長などになったりしてが、女子では、もう一人の同じく留学した中川モトも一開業医として生涯を過ごした。女性にとっては、その実力、能力を発揮できる時代ではなく、ようやく最近になり、女性が活躍できる時代となり、うれしいことである。

 写真は相澤が卒業した宮城県の尚絅女学校と一緒に留学した中川モトの写真である。

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