以前のブログで、尚絅女学校、同志社女学校を卒業後、ペンシルベニア女子医学校を卒業して医師となった相澤操(みさお)について少しふれた(2015.6.19)。明治期、女性が医師になるためには開業医資格試験を受けるか、外国の医学校を卒業する必要があった。多くの場合、当然、予備校に行って医学の勉強をして、試験を受けて医師免許を取得した。一方、須藤かくや阿部はなのように海外の医学校を卒業して、日本に帰国して、医師となった者も少数ながらいる。その一人が相澤操である。
相澤操の故郷、旧:岩手県胆沢郡金ヶ崎村、現在の奥州市の方から、今でも同地に彼女の親類がいて、地元でも顕彰の動きがあることを知った。相澤については福嶋正和先生の「岩手県金ヶ崎町より輩出せる明治女医2名」(第110回に本医学史総会)に詳しく紹介されているが、さらに何か資料はないかと思い、出身学校の宮城県尚絅学院に問い合わせたみたところ、彼女の自伝が載った同窓会誌のコピーをお送りいただいた。大変ありがたいことである。その一部について、少し引用したい。
「私の歩いた道(二) 曽根みさほ
シカゴを立って、目的地のフィラデルフィアに向かいました。随分長い汽車の旅だったように憶えています。フィラデルフィア駅にはヴォクレン夫人のお出迎えをいただき、自動車で郊外のロスモンドのお宅に連れて行っていただきました。翌日は、ご主人が、市内の名所旧跡を見物に、ドライブに連れて行って下さったのでした。しかし、若かったし、話題もなく、語学力も未だ不十分であり、はずかしさも手伝って、車の中でが、黙りこんでおったことを、本当にヴォクレン氏に済まなかったと、今更追憶しております。ヴォクレン氏は、ある鉄工会社の重役でしたので、お宅はまるで御殿のような豪華ないえで、召使いも沢山おり、自家用車も何台かあり、馬車もありました。お出かけの時は、電話で、どの乗り物を使用するかを指定される有様でした。五十年も前のことで、日本ではまだ自動車も珍しい時でしたので、田舎者の私共には、ただ目を見張るばかりでした。私たちは、祖末な和服で参りましたので、洋服を作って下さいました.近い所は馬車で、遠い所は自動車で、何度かドレスメーカーやデパートに連れて行って下さって、仕立てました。貧乏学生から一躍ブルジョワお嬢さんらしくなり、三週間ばかり、その豪華な邸宅に人として暮らしました。しかし、いよいよ学校入学の準備をせねばならないので、下宿に移りました。入学する学校は、フィラデルフィア市内のWoman’s Medical College(女子医科大学)でしたが、種々打ち合わせのために、ヴォクレン夫人と一緒に、校長に会いに参りました。その結果、私たちはラテン語を全然勉強していないので、ラテン語の入学試験を受けなければならないことになりました。夫人の好意で、ラテン語の家庭教師を招いていただき、毎日、一生けんめいに勉強しました。そして、シーザー四冊を勉強して、翌年、入学試験を受けました。幸いに好成績をとり、入学を許可されました。米国の学校は、九月に始まります。教室に入って講義を受ける段になって、どの教室でもむずかしい講義ばかりで、最初は、ノートも充分取ることは出来ませんでした。幸いに旧友達が親切で、ノートを貸してくれるので、大変助かりました。専門の学問を、しかも外国語で勉強するのですから、生半可の勉強では到底、追いついては行かれません。米国の学生より何倍かの努力が必要でした。私たちは、どうしても、口で表現するより、紙に書く方が容易なので、試験の時には、思ったより好い点数をとることができました。科目も、基礎から専門まで何十科目もありました。死体解剖の時などには、最初は、ほんとうに驚きましたが、慣れるに従って平気にやれるようになりました。」
続く
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