先日、ある有名な女性歌手のコンサートに家内と一緒に出かけた。一昨年の山下達郎のコンサート以来なので、久々のライブである。早めにチケットをとったので、前から9列目のベストボジションで期待が高まる。ところが一曲目が始めると、どうも違和感がある。音程が明らかにはずれている。次の曲、次の曲を聞き、今度は音程が大丈夫と思って聞くが、途中からやはり音程が変だ。私は、音楽は大の苦手で、通知簿でも音楽だけは常に評価3で、ギター、ピアノはだめ、歌うのも音痴、唯一、少しできるのはハーモニカとリコーダくらいで、全く音楽的な才能はない。ピアノの上手な家内とは大違いである。ただどういう訳か、演奏の失敗箇所が不調和音として聞こえる。例えば、プロのピアニストがテレビで演奏していても、ミスタッチがわかる。それでも、もともと音楽的才能はなく、この歌手の場合も自分だけが音程が狂って聞こえるものと思っていたが、隣の家内に“音程狂っていないか”と聞くと、家内もそうだという。ただ周りの皆はライブに熱狂しているが、どうも演奏に集中できず、残念な夜となった。
家に帰り、ネットで調べると、この歌手は“音程がおかしい”とのかき込みが多くあり、その原因として耳の病気があり、ファンによっては”音程がおかしいと思うような人は聞くな!“、”そうしたことを越えた感動がある“という。確かに歌の上手とは色々な要素があり、音程もその一つであり、音程が多少くるっても問題ない。例えば、ノーベル文学賞をもらったボブ・ディランは、ライブ演奏では伴奏と歌が合っていないことも多く、ギタリストのジミー・ヘンドリックは「初めてボブ・ディランを聴いたときは思わず”こんなにキーを外して歌える奴は、尊敬に値するぞ“って言っちゃたね」と、メロディラインを完全に無視して自分の歌、気持ちを伝えるディランに感動している。ディランの場合は、完璧に音程を合わせられるが、わざとキーを外して個性を出している、つまりピカソは具象画の達人だか、自分の個性を出すために敢て抽象画を描いているのと同じだと言うひともいる。ただどうもディランは、上に示したスティービーワンダーとの絡みをみても自分の世界に入りきって、音程の解釈に苦労している。それでも誰一人、ディランを音痴あるいは歌が下手だとは言わない。もう一人、フジコ・ヘミング、人気のあるピアニストだが、彼女ほどプロのピアニストでミスタッチをするひとはいない。結構、難曲と呼ばれる早弾きの曲を演奏するが、かなり間違いが多い。ただ本人は、それも自分の個性と考え、自由に演奏しており、フアンもそれを受けとめている。
話を元にもどす。私がショックを受けた女性歌手。音楽的ハンディは本人が一番知っていることであり、それを承知で歌い続けるのは非常に勇気がいるし、それを理解して応援するフアンもすばらしい。私のような、たかが音程の狂いのみが気になるような人間は、真の音楽を理解する能力に欠けているのだろう。その後、何度もこの歌手のライブ映像をYou-tubeで見た。もともと非常に歌のうまい人だが、ここ数年のライブは体調や雰囲気により調子の善し悪しが激しい。それでも懸命に歌う姿を見ると、泣かされる。音程が狂うか、合うかの、微妙な揺らぎというか、不安定性がこの歌手の魅力になるのかもしれない。懸命に全力で歌う姿の中に、そうした可能性を見出す。この歌手は音域の合うディエットで歌うと本当にうまく感動するが、体調によるのか、違う男性歌手とディエットで歌うと全く音程が合わず、その差には驚く。
歌の力をして人を泣かせるのは、すごいことであり、そうした才能を持つ歌手はある意味、選ばれた人間なのだろう。ただベートベンの例を出すまでもなく、耳や声の問題を抱える音楽家は多い。ことに大音量で大きな会場で歌うことは、難聴の原因になったり、のどを痛めやすい。現代の音楽は、ロックのみならず、ポピュラー音楽でも、エレキギター、キーボードなどの電子楽器とドラムがメインで大型のスピーカーにより大音量で鳴らす。これは難聴などの耳の障害を起こしやすい。すでにひどい難聴に悩まされるKinki Kidsの堂本剛のドーム公演は生音のオーケストラを使うという。それほど大きくない会場で、生音で静かに聞くのも、歌手生命を考えると、特にすでに耳の病気を持つ歌手では、重要なことかもしれない。1970年代のロックはスピーカをプレーヤーの後ろに置いていた。これでは耳にはきつい。
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