長坂町 棟方滝根(晴吉貞敬の長男、忠一)
棟方姓は弘前藩でも比較的多く、明治二年弘前絵図でも、棟方郡三(冨田足軽町)、棟方勇八(代官町)、棟方忠司(代官町)、棟方雄之助(緑町)、棟方角弥(笹森町)、棟方滝根(長坂町)、棟方角馬(蔵主町)、棟方常二郎(小人町)、棟方嘉吉(森町小路)の九名がいる。これだけ棟方姓がいると、姓が同じだからといって森町小路の棟方嘉吉が晴吉の近親者とは言えない。棟方晴吉は、十代藩主、津軽信順の重臣で家禄1000石。藩主の跡継ぎ問題で、天保十四年(1843)に自宅にて蟄居され、安政二年(1855)になってようやく蟄居がとけて在府町の自宅に帰ったという(晴吉については青森県人名大辞典に詳しい)。棟方家は家老、用人を勤める名家であり、早道ノ者の物頭といっても、あくまで上司である家老であり、早道ノ道チームの長を兼業していたに過ぎない。当然、蟄居後、関係はない。棟方晴吉(貞敬)の長男、忠一(秀一貞正)は通称、滝根といい、安政四年に百俵で召し帰され、後に百石、二百石となった(「続つがるの夜明け 下巻」)。明治二年絵図では棟方滝根の屋敷が長坂町の本田(多)軍蔵の隣にある。
森町小路の棟方嘉吉の隣の佐藤万太郎については、人名録に“氏は師役の号外にして藩製政治の内、世世町目付町同心の役位と唱うるをあり。其役は犯罪者の町町に捕縛する役目故、族(言偏に矢)役に属ずる者、佐藤氏の業庭に▲▲を期して寄合▲▲の内、十手、早縄、棒、千本刀等の職務に営する業を習練する所なりしか、廃藩置県のため役位を廃止。ために業場を▲す”一部不明な箇所があるが、どうやら佐藤万太郎屋敷には稽古道場があり、同心などにここで十手や縄などの捕縛技術を教えたのであろう(ウィキペディアの“森町”の説明では森町から覚仙町にかけて町同心稽古所があったとしているが、本町にかけてが正しいようだ)。今でいう警察学校のようなところで、幕府には伊賀同心、甲賀同心などもいて、忍者を同心の中に入れたことから、弘前藩の早道ノ物チームも家老直轄とはいえ、直接的な差配は同心扱いで、佐藤万太郎が上司だった可能性もある。
棟方嘉吉の左隣の原子文弥については不明であるが、こうした行き止まりの小路の奥にある家は何やら秘密めいて、なるほど“早道の者”の家と言ってもいい雰囲気がある。ただ棟方嘉吉が早道ノ者の小頭であれば家禄は少なく(六十俵、四人扶持であれば、額面で21石に相当し、きびしい家計である、四十俵三人扶持との記述もある。また「弘藩明治一統誌 勤仕録」には早道ノ者 おそらく並みの者では三十俵二人扶持とあり、十石でさらに厳しい)、そうした者が住むには中級士族の住む森町はふさわしくないし、建坪も大きいように思える。例外も多いが、森町は五十石から百石の家禄の中級士族の住む町であり、隣の佐藤万太郎もそうである。内部の調査では隠れ部屋のようなものもあるようだが、知人によれば和徳町の稲荷神社の神官宅(明治二年弘前絵図では山辺織衛宅)にもそうした部屋があるようだ。棟方嘉吉の屋敷を忍者屋敷と決めるにはまだまだ資料が足らないが、それでも幕末の家屋として保存の価値は十分にある。ただこうした歴史的の古民家であっても残念だが、弘前市による買取はできず、土地売買時に家屋のみを分解して保存し、市が保有する土地に復元する。あるいは土地ごとすべて寄贈しても、市が必要性を認めなければ受け取らない。
忍者屋敷として観光客に売り出すのもよかろうが、青森の民芸運動を主導した相馬貞三さんが最後まで愛した家としては、青森県立郷土館や弘前市立博物館とタイアップして津軽民芸館として公開した方がいいかもしれない。民芸品は博物館でみるよりはこうした古民家で鑑賞したり、こぎん刺しなどのワークショップも楽しい。保存については色々な方策があるので、弘前市の保存協会や関連部署とも是非相談してほしい。
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先日、公開された弘前図書館のデジタル資料、寛政年間(1800)の弘前大絵図で、上記の場所を調べると、棟方嘉吉の家は、”斉藤友(さんずいに友)八郎”となっている。また佐藤万太郎の家は”町同心稽古場”となっており、その敷地は、小友家と珍田家の庭で遮られている。森町から町人、”柾右衛門”の横の小路から入っていくようになっている。斉藤友八郎の敷地についての面積は坪でいえば130坪くらいとなり、下級から中級の士族の敷地に相当する。斉藤友八郎から森町への小路の両脇には栗山志馬と斉藤小四郎の名がある。小四郎と友八郎は親類であろう。斉藤友八郎の家の前は”原子文弥”となっており、幕末も同名であり、原子家の世襲名であろう。
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