天守多聞の屋根は銅瓦ではなく、銅板を横板でで止めているようだ |
現在、弘前城天守閣は石垣修復のために70mほど本丸内側に移動されています。予定では完成は10年後とされていますので、大掛かりな工事です。早くもとの状態になってほしいところです。ところがこれとは別に、以前、2011年ごろのことですが、弘前城築城400年祭関連事業として弘前城跡整備計画概要が発表されました。それには本丸石垣の修理とともに、天守の保存修理・本丸多聞・塀の復元整備の計画があります。
弘前城天守の多聞および塀とは天守に続く、白壁の横長と建物と塀を指します。彦根城の天守多聞などが有名ですが、これを復元するというのです。これができると二の丸付近からの弘前城の眺めが一変します。弘前城天守から多聞と塀が石垣に上に続くことになり、移動前に風景とかなり違ってきます。お城としての威厳は高まると思います。ところが石垣修復の関係者に聞いても、この多聞と塀復元については、誰も聞いていないといいます。確かに発掘調査では塀や多聞の柱跡などの調査をしていると思いますが、具体的な復元案はありませんし、工事関係者も知らないようです。
現在、文化財の復元は非常に面倒になっています。全国各地に大阪城や名古屋城のような復元天守がたくさんありますが、今ではこうした復元は難しくなっています。もともとの建物とできるだけ同じものを要求されるため、正確な図面と絵図あるいは写真が必要となっています。江戸時代の多くの城は明治初期に壊されたものが多く、図面はあってもその外観を示す写真や絵が少ないようです。名古屋城は太平洋戦争の空襲で焼失しましたので、多くの写真が残っており、それが本丸御殿の復元に繋がっています。もし今の基準であれば、コンクリ製の現天守は認められなかったでしょう。弘前城においても本丸御殿をs復元しようとする動きがありましたが、平面図面があっても、外観の図面、写真がないため、許可されていません。将来、外観の写真が発見されれば状況は変わるかもしれませんが、今のところ本丸御殿の復元は難しいようです。
それに比べて弘前城天守多聞と塀については、明治初期に撮られた写真が何枚かあるので、復元が認められる可能性は高いと思います。塀については、瓦を天守と同じ銅板葺きか確認が必要ですし、北側のどこまで堀を復元するかといった問題はありますが、類型は多く、それほど復元は難しくないでしょう。天守に続く構造物は、明治二年弘前絵図では、腰掛屯所、見張所そして井戸をはさんで陸尺詰所となっています。見張所と陸尺詰所は塀から少し離れた独立した建物で、現在、復元移築されて二の丸与力番所(見張所)に近いと思います。ただ天守に続く多聞について外観は写真から再現されますが、内部構造は不明で、発掘調査による柱跡などによる推測となるでしょう。簡単な構造とは思いますが、冬場の寒さを考えると、ここで供の者が主人の帰りを待つとなると吹きさらしではないでしょう。絵図によれば、腰掛屯所は他には追手門を入って左に、さらに三の丸から二の丸に行く下馬橋ふもとに、あとは本丸下乗橋突き当たりの所に腰掛所があります。天守多聞、腰掛屯所の内部の写真があれば、いいのですが、少なくとも幅がわかれば、ベンチのような本当に腰掛のようなものか、板の間の部屋となっていたのかはある程度わかるでしょう。
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