青森りんごの輸出は好調で、昨年度は2万トン近くのりんごが、台湾、香港、中国、タイなどに輸出されているが、その中でもダントツに多いのが台湾向けであり95%を占める。
りんごの輸出は、明治期から始まり、主として中国、マニラさらにはロシアまで輸出されていた。戦前の統計では中国向けが一番多く、上海を経由して輸出されていた。次は満州向け、そして台湾向けが多かった。荷造りなどに工夫を凝らしたようだが、どうしても日持ちはせず、輸出量も少なかった。
戦後、昭和24年には、早くも香港向けにりんご輸出が始まったが、量は少なく、それでも豊作であった昭和27年には香港向けだけで8500トンの輸出があった。ちなみにこの年の台湾向けの輸出量は267トンで香港向けに1/30に過ぎない。さらに台湾向けの輸出は昭和28年、29年はゼロとなり、ようやく昭和30年から台湾向けが増え始め、昭和45年ごろに輸出先首位となった。昭和34年に日華通商協定によりりんご輸出がバナナ輸入とのバーター取引で拡大されたが、このことが輸出量の拡大した一つの要因であろう。弘前市では台湾バナナをメインにした果物屋が多いが、こうした事情にもよる。
山田純三郎が長い中国生活を切り上げ、日本に帰国したのは昭和22年、昭和29年には台湾における蒋介石総統就任式に招かれ、旧交を温めた。その前後から、台湾の旧知の国民党の重鎮との交際を開始し、日本から台湾への訪問者の仲介をしている。愛知大学東亜同文書院大学記念センターの収蔵資料目録をみると、鄭彦棄から純三郎の手紙に、紹介された斉藤泰治と会談、台湾でのリンゴ販売の件は斉藤氏から報告させるの記載がある。さらに前後して国民党重鎮の張道藩などの手紙では台湾のバナナのバーター貿易に関する問い合わせが相次ぎ、昭和34年の日華通商協定に純三郎はバックで活躍していたようだ。斉藤泰治は青森県リンゴ課長で、リンゴの台湾輸出を積極的に進めていた人物である。また純三郎と手紙での交際のあった弘前市、対馬竹五郎は、リンゴ栽培農家であり、県議まで勤めた有力者であり、こうした事例をみると、山田純三郎は若い頃、東京でリンゴ販売をしたこともあるせいか、戦後、自分のもつ台湾国民党の有力者のチャンネルを利用して、青森リンゴの台湾への輸出に尽力した。そうした意味では山田純三郎は今日のりんご台湾輸出の盛況の恩人と言えよう。
もうすぐに発表になるが、弘前市では平成30年度の日本遺産に「サムライの生んだ日本一のりんごのまち」というテーマで応募している。詳細は不明であるが、弘前藩士族、山田浩蔵の息子、山田良政、純三郎は日台中間の友好に活躍し、結果として今日の台湾へのリンゴ輸出に繋がっている。それを考えると、貞昌寺にある山田良政、純三郎に碑は弘前市のテーマに沿った日本遺産に該当してもよかろう。
1952年には8531トンあった香港への輸出は2008年には770トンへ、1968年には10281トンあったフィリッピンへの輸出は2008年には8トンへ、1956年に1481トンあったシンガポールへの輸出は2008年には65トンへ、いずれもアメリカ産、豪州産、中国産の低価格りんごに押されて大幅な減少となっている中、台湾では青森産リンゴは高級果実として大幅な増加となっている(戦後青森産りんごにおける輸出構造の形成とその要因について、黄孝春など、弘前大学大学院地域社会研究科年報、2010)。日台間の強い友好の故であろう。
1952年には8531トンあった香港への輸出は2008年には770トンへ、1968年には10281トンあったフィリッピンへの輸出は2008年には8トンへ、1956年に1481トンあったシンガポールへの輸出は2008年には65トンへ、いずれもアメリカ産、豪州産、中国産の低価格りんごに押されて大幅な減少となっている中、台湾では青森産リンゴは高級果実として大幅な増加となっている(戦後青森産りんごにおける輸出構造の形成とその要因について、黄孝春など、弘前大学大学院地域社会研究科年報、2010)。日台間の強い友好の故であろう。
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