バブルの頃、株で少し失敗したため、その後、ずっと株をしなかったが、三菱重工が国産旅客機MRJを開発していることから、その応援も兼ねて、三菱重工株を数年前に買った。株価は一時、上がったが、最近はMRJの開発の遅れが嫌われ、また下がってきた。
戦後最初の国産旅客機YS-11が量産開始されたのが1965年(昭和40年)で、この時は三菱重工だけでなく、川崎、富士、新明和などオールニッポンの体制で開発が行われた。1959年から開発が行われたが、戦後ほとんど飛行機製造から遠ざかっていたため、開発は難航し、操縦性の悪さを改善するのに時間がかかった。完成した機体は、戦前の日本機と同じ欠点、パワー不足が指摘され、パイロットからは操縦の難しい飛行機であった。それでも戦後、日本で初めて開発された本格的な旅客機であり、独特な形態のYS-11は好きな機体である。機体価格が安い割に、乗客数が多いので、海外でも結構売れたが、いかんせん当時の日本には海外でものを売るノウハウが全くなく、ましてや航空機の輸出は、メンテナンスも含めて難しい。結局、黒字がでないまま昭和47年に182機で生産中止となった。
大阪—青森間は長い間、YS-11が使われていたので、私もなんども利用した。機内の騒音がひどかったが、パイロットの技量によっては、霧で十メートル先が見えない天候でも、青森空港に目視で着陸したことがある。この時は3度目のトライで着陸した。今ではこうした危険な着陸はしないであろうが、当時は大阪—青森でも航続距離からすれば余裕はなかったので、強行したのだろう。鹿児島から奄美、与論島など離島に行くにもYS-11に乗ったが、途中、海しかないので、この時は、体重、荷物まできちんと測定して乗った。
YS-11の後にはY−X、Y−XX計画があったが、いずれも途中で中止となり、日本の航空産業は、ボーイング社の共同開発によって、かろうじて残った。その後、46年経ち、ようやく国産の旅客機が開発が始まったのが三菱MRJである。最後の挑戦となる。現在、三菱MRJはFAA(米国連邦航空局)の型式取得を取るため、アメリカで飛行試験を行っている。今のところ順調に試験は進んでいるが、ただ気になるのは、いつになったらFAAの取得ができるか、はっきりしていないことである。通常、FAAの型式取得には2500時間の飛行が必要で、すでに計画通りであれば、この数値は2000時間になっており、型式取得が近いはずだが、記事で来年以降となっている。4機体制で試験を行い、毎月100—200時間くらいプラスになっていると思うが、何か飛行時間を延長するような問題点があったのだろうか。型式取得さえできれば、競合するブラジルのエンブラエルやカナダのボンバルディアより機体設計が新しいだけに、燃費の良さといった利点はなくなっても、まだまだ勝因はある。MRJは70-90座席の小型機であるが、その上の100-150座席サイズでは、1967年初飛行というB737がまだベストセラーとなっている。737は改良して別機体となっても、すでに初飛行から50年の年月は古く、後継機が必要であろう。ボーイング社やエアバス社とも競合するカテゴリーだが、このフィールドを押さえないと利益には結びつかない。MRJのシリーズ化が必要であろう。
天下の三菱重工とはいえ、ボーイング社に比べると売り上げは半分以下、利益は1/10であり、会社として到底勝負にならないが、日本の飛行機産業参入への最後のチャンスであり、トヨタ初め財界の支援、政府も後押しも必要な国家事業である。飛行機産業は車以上に裾野の長い産業であり、三菱重工のお膝元、名古屋でも期待しており、一企業を越えた大きな事業である。
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