2018年5月9日水曜日

戦前、戦後 もはや死語

 日曜日の朝、テレビを見ていると、コメンテーターが“戦争を体験した私にすれば、今の安倍政権の”うんぬんとしゃべっていた。確か大学教授だったが、どう考えてもそんなに歳とっていない。調べると、昭和2011月生まれの戦後世代である。戦争を体験したとよく言えたものである。笑止である。

 戦後、七十年、戦争体験者はほとんど亡くなった。最近は生存者が少なくなったためか、終戦特集にでている人も、戦争には参加したとは言え、当時、十八、二十歳の若輩で、なおかつ末期にかろうじて参加した者ばかりである。こういっては何だが、今まで年配のベテラン兵が生きていたので、おとなしくしていたのが、急にしゃべりだす。こうした感じである。

 おやじは大正八年生まれで、学徒で戦争に行ったのが昭和十七年、帰国したのが昭和二十二年であった。二十三歳から二十八歳までが戦争経験となる。このあたりの世代が少なくとも、戦争を経験したと人にいえる平均かと思われる。旧制中学の同級生名簿をみると、ほぼ半分くらいが戦死しており、大正生まれの人々が先の戦争世代と呼んでよい。小学校の友人の家に行くと、勲章をみせてもらったことがある。お父さんは少将であった。まわりの大人たち、親の世代は、ほぼ戦争経験者であり、さらに祖父の代になると、日露戦争従軍者もいた。

 こうした世代の人々は、戦争については家族にはしゃべらなかったが、時折、酒を飲むと家族以外の他人に戦争中のことを話すことがある。私は昔から年寄りと話すことが好きで、興味津々に質問するためか、こんな話は家族にもしたことはないと前置きされた上でおもむろに戦争中の話をする。ずいぶん多くの方から戦争中のことを聞いたが、戦争時代を懐かしむ人が意外に多い。戦前の日本人にとって、故郷の外に出ることは滅多になく、まして満州や南方諸島のような外地に出ることは、戦争がなければ経験できないことである。さらに戦争という究極の体験は深く記憶に止まり、わずか数年の経験であるが鮮明な記憶として残っているのだろう。ニューギニア、インパール、ガダルカナルなど悲惨な戦場はあったが、タイ、ラオス、台湾などに赴任していた人に聞くと、意外に楽しかったという。タイに長年いた元将校によれば、赴任期間、ほとんど戦闘らしきこともなく、本土に比べて食べ物もおいしく、戦後もすぐに日本に帰れたという。親父の場合も、終戦後、ソ連の捕虜となったが、国境付近にいたので、初期の捕虜でシベリアには送られず、モスクワ南部のマルシャンスク捕虜収容所にいた。ここはイタリア、ドイツ兵もいて、捕虜生活、ことに食糧はひどかったが、シベリアほどの強制労働はなく、ましては歯科医であった親父は収容所内で無麻酔での抜歯ばかりして、上達したと言っていた。四国、徳島県脇町に戦前いたお袋に聞くと、昭和18年以降は少し食糧難であったし、兄はインパール作戦で戦死したが、戦時中でもそれなりに楽しい思い出があった。


 こうしたことを聞いていたので、映画「この世界の片隅に」には、非常に感動した。この映画は、戦争讃歌あるいは逆に反戦映画とは異なるリアルな戦争経験を描いた作品と言える。主人公のすずさんは昭和元年生まれで、うちのお袋、大正13年生まれと同世代であり、今度、アニメをお袋に見てもらって感想を聞いてみたい。もはや大東亜戦争から73年。戦争を実際に経験した人もいない時代となった。私たちの世代(1956年)にとって、この戦争経験者は全く頭が上がらない世代であり、説教をされても素直にハイハイとしか言えない存在であった。何しろ彼等は、戦争とは言え、人を殺した、逆に殺されかけた人であり、それだけでもすごい。こうした世代がいっせいにいなくなり、抑えがなくなったため、随分開放感があるが、一方、自分も含めていいかげんな、無責任な人間が多くなったのかもしれない。もはた戦前、戦後という言葉は死語になったのであろう。

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