藤田とし
藤田とし(敏子)については、以前、このブログでも何度か取り上げたが、最近、その子孫の方よりご連絡いただき、新たな情報を得たので、その一部を紹介したい。
藤田としは明治9年4月9日に、藤崎町で医師をしている藤田系疑の長女として生まれた。父、奚疑は中津軽郡大川村(現在の弘前市大川、弘前藩領絵図では板柳と岩木川を挟んだ対岸に大川村がある。隣村は青女子と三世寺)の藤田豊三郎の三男として嘉永2年2月5日(1848)に生まれた。日本杏林要覧(明治42年)には青森平民、明治17年5月(1884)医籍取得とあり、36歳で医者になったことになるが、それ以前から医師として働いていたかは不明である。母は南津軽郡追子野木村(現:黒石市追子野木)野呂成定の次女しゅんで嘉永6年3月10日生まれである。次女、なり(明治10年9月3日)、三女、さた、四女、みほ、そして待望の長男、知足、五女、しげ、六女、すなの一男六女の多所帯であった。
父、系疑は医師であり、漢学においても今和次郎の叔父で、北海道帝国大学総長、今裕の父、今幹斎につき、師匠の没後には“幹斎遺稿”という本の編集に参加している。同時に藤崎教会の初期からの熱心な信者であり、早くから本多庸一や長谷川誠三らと知己を結び、洋学に触れていた。そのため、女子にも高い教育を受けさせようと、明治20年、藤田とし、11歳の時に函館、遺愛女学校に入学させた。遺愛女学校ができたのは明治14年なので入学時でいえば5回生となる。明治19年には弘前にも来徳女学校(現:弘前学院)ができたが、より設備の整った函館の学校に進学させた。としはここで9年間学び、卒業後もさらに英語を、学ぶために2年間、宣教師の子息の家庭教師をしていた。ちなみに小説家、今東光の母親のあや(綾)は、明治2年生まれで、朝陽小学校卒業後、遺愛女学校に入学する。おそらく3回生で、同期には鎮西学院の中興の祖、笹森卯一郎の妻、三上としや野田こうがいた。また高谷トク、大和田シナら一、二回生のほとんどは弘前出身の子女であった。生徒は全て寄宿生活であり、その後、地元の弘前女学校に行く生徒も増えたため、初期の遺愛女学校の弘前出身の生徒は学年にかかわらず、ことのほか仲がよかった。
才色兼備のとくは、山田良政の伴侶として山田家、菊地家から選ばれ、厳格なして同居することになった。この時点では夫である良政とはまだ会っておらず、翌年明治32年11月に、中国にいた良政が寸暇を惜しみ、弘前に帰郷し、そこで結婚式を挙げたものの、一週間ほどで妻を残して中国に行ってしまう。これがとしにとって、夫と暮らした生活の全てであった。良政は明治33年に南京にできた南京同文書院の教授となったが、そこを辞職して、同年10月11日に恵州起義に参戦して戦死する。結婚式を挙げて一年も経っていない。良政の死ははっきりせず、としは弘前女学校や遺愛女学校で先生をしながら夫の帰りを待った。大正2年、としは遺愛女学校を辞して、弘前に移り、老齢の山田家の両親のもとで孝行を尽くし、大正7年に良政の父、浩蔵が亡くなるのを待って、離籍して藤田姓に戻った。わずか、1週間の夫との生活であったが、21年間にわたり山田家に尽くした。
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