日本でのキリスト教の最初の布教が、イエズス会の創立メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルであることはよく知られており、その後も、ルイス・フロイスなどの優秀な宣教師により日本人信徒も増えていった。有名な天正遣欧少年使節の4名の少年も全てイエズス会員であり、今回、ローマ教皇が訪れた日本二十六聖人記念碑で祀られた殉教者の中には、パウロ三木、ヨハネ草庵、ディエゴ・喜斎の3名のイエズス会員がいる(他には4名のスペイン人、メキシコ人、ポルトガル人フランシスコ会司祭、修道士と17名の日本人信徒がいる)。殉教者に対するローマ教皇の対応は、1629年には23名のフランシスコ会の信徒と3名のイエズス会の信徒が福者に、さらにかなり遅れて、全ての殉教者が1862年には聖人となった。
明治維新後、イエズス会が再度、日本での布教を開始したのはプロテスタン会派に比べてかなり遅く、1905年(明治38年)のことで、フランシスコ・ザビエルの“日本のミヤコに大学を”という言葉に基づく。もともとイエズス会は若者の教育に熱心であり、欧米を中心に多くの学校を建てた。日本にもカソリックの高等教育機関、大学を建てるために、ローマ教皇からオコンネル司教が派遣され、できたのが上智大学で、1928年の設立となる。プロテスタン系の同志社大学は1875年に創立、大学となったのが1920年、立教大学は1874年創立、1920年に大学、関西学院大学は1889年創立、1932年に大学となったが、青山学院大学は1874年創立だが、大学になったのは戦後、1949年である。大学を東京に作ったイエズス会は、関西の拠点として神戸、六甲学院を1937年(昭和12年)に作った。よくこの時代にキリスト教の学校を作ったものだと感心する。その後できたのが、1947年創立の横浜の栄光学院、1956年創立の広島学院、2011年にイエズス会系となった上智福岡中学校高等学校である。
今では神父の数も減ってきたが、私のいた頃の六甲学院では、40名くらいの先生のうち13、4名が神父で、さらにその半分が外国人教師であった。また上智大学からは若手の外国人先生が短期に赴任することもあった。外国人教師は、上智大学を母体として、そこで日本語を学び、専門学科を学び、関係高校に派遣される。逆に高校の教師をしていて、上智大学の教授になることもある。他の姉妹校のことはわからないが、二、三年に一度、六甲高校を卒業後、上智大学神学部に入り神父になる人がいる。私の学年でも、成績が良く京都大学は確実に合格できた長町裕司上智大学教授がいるし、訓育生であった瀬本正之さんも京都大学理学部を卒業後に上智大学神学部に入学し、今は上智大学神学部教授になっている。サッカー部の同級生も東京大学卒業後に民間企業に就職し、その後、神父になろうとした。高校内に修道院のような建物があるせいか、入学時10名くらいしか信者がいなかったが、卒業時には50名くらいは信者になっていた。
今回のローマ教皇は、カトリック始まって以来のイエズス会出身の教皇で、上智大学のみならず、姉妹校の六甲学院、栄光学院、広島学院でも大いに盛り上がったのだろう。忙しい日程の最後にフランシスコ教皇が上智大学を訪れたのは、この上ない名誉である。教皇の通訳をしていたアルゼンチン出身の神父も一時、六甲学院の教師をしていたようだ。教皇も若い頃は日本に宣教に行きたかったが、健康上の理由で諦めたと述べているが、運命が違えば、上智大学や六甲学院で教師をしていたのかもしれない。
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